なぜ司法書士になったのか、思い出せなくなった日

なぜ司法書士になったのか、思い出せなくなった日

気づけば「なんでこの仕事してるんだろう」と考えていた

朝、いつものように机に向かい、登記申請書を作っていた。ふと手が止まり、時計を見た瞬間、「あれ、なんで俺はこの仕事してるんだっけ?」と頭の中にぽっかり穴が空いたような気分になった。寝不足だったからか、心に余裕がなかったからか、その問いがやけに重たく感じた。そもそも司法書士になりたくてなったはずなのに、その“なりたかった理由”が、どこか霞んで見えなくなっていた。忙しい毎日の中で、いつしかルーティンに飲まれ、感情が追いつかなくなっていたのだと思う。

朝の書類に向き合いながら浮かんだ違和感

「あ、またこの形式ミスだ。もう何回目だろうな」そんな独り言が出た時、ふと違和感を覚えた。自分が本気でこの仕事に誇りを持っていた時期もあったはずなのに、今は“こなす”という感覚が先に立ってしまう。仕事に対して、義務感と惰性だけが残っている気がしてならなかった。事務員の彼女は黙々と書類整理をしてくれているが、自分の表情はたぶん、無表情に近い。あの頃の自分は、こんな顔で働く大人になりたかったのだろうか?

始まりはたしかに「志」だったはず

思い返せば、この道に入った頃は確かに「誰かの役に立ちたい」とか「法律を使って人を助けたい」なんて、青臭い理想があった。大学時代、借金問題で困っていた友人の姿を見て、「このままじゃダメだ。自分が法律を学んで、誰かの力になれるようになりたい」と強く思ったことを覚えている。あの時は、それがすべての原動力になっていた。でも、いざ資格を取り、独立してみたら、現実は思っていた以上に淡々としていて、理想だけでは回らないことばかりだった。

でも今は「終わらせるために働いてる」気がする

今の自分は、誰かの力になるというより、目の前の依頼を「終わらせるため」に働いている気がする。もちろん依頼者には失礼のないように対応するけれど、どこかで「これが済めば帰れる」としか思えない日も多い。忙しさにかまけて、感謝の気持ちややりがいが置き去りになっている。毎日押し寄せる書類の山に向かっているうちに、いつのまにか“こなす職人”になっていた。始まりの志とは、ずいぶん遠くまで来てしまったように思う。

そもそも司法書士になった理由なんて明確だったか?

冷静になって考えると、最初から明確な理由なんてなかった気もする。安定した職業、独立できる可能性、法律職というプライド——そんな曖昧な動機を、都合よく「志」と呼んでいただけかもしれない。資格学校に通い詰めていたあの頃、周囲に影響されていただけで、本当は“受かりそうだったから目指した”というのが本音だったのでは、とすら思う。記憶の中の「目指した理由」は、美化されすぎているのかもしれない。

「人の役に立ちたい」なんて理想はどこへ

最初は本当に思っていた。「誰かの人生を支える仕事がしたい」と。だけど、現場で求められるのは、スピードと正確さと請求書の出し方。そこに感動や感謝が毎回あるわけじゃない。むしろ、「もっと安くできませんか?」なんて言われることの方が多い。人の役に立つって、こんなに疲れることだったっけ? 理想に燃えていたあの頃の自分に、今の自分を見せたらどう思うだろうか。たぶん、がっかりするに違いない。

資格を取ることで人生が開けると思っていた頃

資格にさえ受かれば、道は開けると思っていた。実際、合格通知を手にしたあの日は、それこそ世界が輝いて見えた。でもその後に待っていたのは、事務所経営の現実、経費と人件費と請求漏れの恐怖。独立するというのは、つまり「全部自分で責任を持つ」ということで、それがこんなにも重いとは知らなかった。資格は武器にはなるけれど、それだけで“仕事の幸福感”が得られるわけじゃない。むしろ、重さを増やすだけだった。

開けた先に待っていたのは、地味で孤独な現実だった

晴れて独立開業したその日、自宅と兼用の小さな事務所の中で、「これから自由に働ける」と胸を躍らせた。だけどその翌週には電話が鳴らず、誰にも会わず、一日中机に向かっていた。「あれ?これが自由ってやつ?」と、ふと笑ってしまったことを今でも覚えている。誰にも頼られず、誰にも相談できない——それが「士業の孤独」というやつだった。開けた扉の向こうには、拍子抜けするほど静かな現実が広がっていた。

日々の業務に追われて、自分を見失う

この仕事は、目に見える成果よりも「正しく終わること」が求められる。つまり、当たり前にこなすことが前提で、ミスは許されない。でも、その「正確さの維持」が、思っている以上に精神を削る。夜遅くまで書類を見直し、目が霞むなかで「このままじゃ身体壊すな」と思いながらも止められない。そんな日々を繰り返しているうちに、自分が何をしたくて、なぜこの仕事を選んだのか、すっかり見失っていた。

登記のミスを恐れて神経をすり減らす日々

ひとつのミスが数十万円の損害、依頼者の信用、果ては裁判沙汰になるかもしれない——そんなプレッシャーの中で仕事をしていると、どんどん神経がすり減っていく。しかも、うまくやって当たり前。何も起こらないのが成功という世界で、誰にも褒められずにただ耐え続ける日々。ちょっとした名前の誤字一つで血の気が引く。そんな仕事、なかなか他にはないと思う。だから疲れて当然だと思う一方、「でも、それがこの仕事」と納得する自分もいる。

「責任」と「孤独」はいつも隣にいる

責任ある仕事だという自負はある。でもその責任は、相談相手もなく一人で背負うには重すぎることもある。事務員に任せられる範囲には限界があるし、何かあれば最終的に責任を取るのは自分だ。そんなプレッシャーを日々感じながら、誰にも頼れず孤独に作業を続ける。誤解を恐れずに言えば、「誰かに代わってほしい」と思ったこともある。でも結局、誰も代わってはくれない。それがこの仕事の現実なのだ。

愚痴をこぼす相手が一人しかいない職場

愚痴を言える相手は、ほぼ事務員ひとりだけ。でもその彼女にも、あまり負担をかけたくないから、結局ぐっと飲み込むことが多い。たまに休憩時間に少しだけこぼすけど、それも空気を読みながら、控えめに。愚痴を言えない職場って、こんなに閉塞感あるものなんだなと、改めて思う。話せないから余計に蓄積していく。でも、じゃあ誰に話せばいいのか。そうやって気持ちの持っていき場を探しながら、今日も机に向かっている。

それでも続けている自分を、少しは認めてやりたい

毎日、やめたい気持ちと、続けなきゃという気持ちの間で揺れながら、それでも仕事を続けている自分を、少しくらいは褒めてやってもいいのかもしれない。派手な成功も、華やかな表彰もないけれど、「今日も一日、誰かの登記を守った」と思えば、それはそれで意味のあることなんだと思いたい。情熱がなくなっても、責任感で動けるというのは、それはそれで立派なことなんだと、自分に言い聞かせている。

やめたくても、やめられない理由

この仕事は、やめようと思えばいつでもやめられる。でも、今までの積み重ねや、関係してきた依頼者、そして自分の生活を思うと、やっぱり簡単にはやめられない。特に、地方では一度築いた信頼を手放すのは大きなリスクだ。それに、やめたところで何をするのかも見えていない。だったら、もう少しだけ続けてみようか——そうして今日もまた、朝の書類に向き合っている。

一人の事務員と、一人の自分とで支えてる事務所

この小さな事務所は、僕と彼女の二人で回っている。彼女の存在がなければ、とっくに潰れていたかもしれない。たった一人でも、信頼できる人がいるのは救いだ。何も言わずに支えてくれる彼女に感謝しつつ、じゃあ自分はどうなんだと問いかける。「せめてもう少し、ましな背中を見せられるように」そんな思いが、わずかにモチベーションを保ってくれているのかもしれない。

今日も疲れてるけど、明日もたぶん出勤する

情熱はもう、あの頃のようには燃えていない。むしろくすぶって、灰になりかけている。でも、それでも明日もきっと出勤する。誰に言われたわけでもなく、そうするしかないから。だけど、たまに思う。「もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃないか」と。完璧じゃなくても、ちゃんと働いてる。だから今日も、自分を少しだけ肯定して、また一日を終える。そんな日々の繰り返しが、この仕事を“続ける理由”になっている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。