先生と呼ばれても自分じゃない気がする日々

先生と呼ばれても自分じゃない気がする日々

先生と呼ばれても自分じゃない気がする日々

肩書きに気持ちが追いつかないときがある

司法書士として事務所を構えて十数年。お客さんから「先生、お願いします」と声をかけられるたびに、今でも胸の奥がムズムズする。ありがたい言葉だとわかっていても、自分のどこにそんな“先生”らしさがあるんだろうかと、ふと思ってしまうのだ。法務局からの帰り道、車の中で一人、昔の自分を思い出すことがある。野球部で泥だらけになっていた高校時代の自分には、この“先生”という呼び方がまるで別の世界の言葉のように聞こえてしまう。

先生と言われるたびに少し居心地が悪い

「先生」と呼ばれるたび、背筋が伸びる思いがする。それはきっと、責任や期待を象徴しているからだろう。けれど、本音を言えば、そんな立派な人間じゃない。たとえば先日、依頼者に「先生、本当にありがとうございます」と頭を下げられたとき、胸がチクっと痛んだ。私はその人のために最善を尽くしたか? 本当に納得いく説明ができたか? そんな自問がよぎる。

元野球部の自分にそんな威厳はない

昔の自分は、練習のあとに部室でふざけて笑っていたような人間だった。人前で話すのも苦手だったし、真面目な顔をして書類を読むような人間になるなんて思ってもいなかった。そんな自分が「先生」と呼ばれていることに、今でも不思議な違和感がある。中身はさほど変わっていないのに、外側だけが立派になったような気がしてならない。

名前で呼ばれる方がしっくりくる本音

正直、「先生」より「稲垣さん」と呼ばれる方がほっとする。仕事以外の場面、たとえば地元のスーパーで同級生に「おお、稲垣じゃん」と言われると、少し救われた気分になる。それはきっと、背負っているものを一瞬だけ下ろせるからだろう。名前で呼ばれると、自分に戻れる。司法書士という看板の裏にいる、本来の自分に。

期待されてる自分と本当の自分のギャップ

「司法書士の先生」という言葉には、“完璧な知識”や“冷静な判断力”といったイメージがつきまとう。でも現実の私は、書類の山にうずもれ、時にはケアレスミスに頭を抱えるただの人間だ。現場では常に正解を求められ、少しでも間違えば信用を失う。そんなプレッシャーが、じわじわと心を蝕んでいく。

登記ミスに怯える毎日

たとえば、登記の申請。ひとつの誤記が、大きなトラブルを招く。依頼人の人生を左右しかねない。夜、自宅で風呂に入りながら「あの件、大丈夫だったか」と考え始めると、眠れなくなる。チェックは三重にしている。それでも不安は消えない。自分の確認を自分で疑う日々だ。

頼られるプレッシャーに疲れる夜

「稲垣先生にお願いしてよかった」——ありがたい言葉だ。でもその言葉に、私は応えられているだろうか。電話が鳴らない夜、妙に不安になる。誰にも頼られていないようで、でもこれ以上頼られても耐えられない。そんな矛盾した感情に挟まれながら、夜のコンビニでビールを一本だけ買う。

司法書士の看板を背負うということ

この仕事には、見えない“重み”がある。依頼人はその重みに安心してくれるが、実際に背負っている側は、だんだんとその重さに慣れすぎて、疲れたことにも気づけなくなってくる。司法書士という仕事が誇りである一方、自分を押し殺している感覚も否めない。

仕事は増えるけど誰にも相談できない

年々、依頼は増えている。ありがたい。でもそれに比例して、孤独もまた増していく。法律の細かい判断について、相談できる相手がいない。事務員さんには相談できないし、同業者には弱みを見せたくない。いつからだろう、ひとりで抱え込むのが当たり前になったのは。

地方ならではの孤独感

都会とは違い、地方では仕事の数も限られている。地域の繋がりはあるけれど、仕事の悩みを共有できる相手はいない。飲み会に誘われることも少なくなった。人との距離が近いはずの地方で、なぜこんなにも孤独なのかと感じる。

事務員さんの優しさが唯一の救い

事務所のたった一人のスタッフ。彼女の「お疲れさまでした」の一言に救われることがある。お互い忙しいけど、何気ない会話で空気が少しやわらぐ。自分はまだ人と関われているんだと思える瞬間だ。そういう小さな支えに、何度も助けられている。

ミスできない仕事に身構えてばかり

この仕事はミスが許されない。だからいつも完璧であろうとする。でも、完璧なんて無理だ。何度チェックしても不安が消えない。神経が張りつめたままで、帰宅してもスイッチが切れない。そんな毎日が続くと、だんだん心が痺れてくる。

眠りが浅くなる繁忙期の現実

3月、繁忙期に入ると仕事が雪崩のように押し寄せる。寝ても寝ても疲れが取れない。頭の中は常に書類と依頼でいっぱい。気づけば、夢の中でも登記簿とにらめっこしている。目が覚めても、またあの机の前に座らなければならない。

誰かと分かち合えたら少しは楽かもしれない

この世界では、なぜか「弱音は甘え」と思われがちだ。でも、弱音を吐ける場所があれば、救われる人は多いと思う。SNSでもリアルでも、気持ちを共有できる仲間がいたら、この仕事の重みも少しは軽くなるのかもしれない。

自分を認められないまま走ってきた

司法書士として、事務所経営者として、日々を走り続けてきた。でもふと立ち止まると、「このままでいいのか」と不安になる。自分を“先生”と呼ぶ人はいても、自分自身は自分を認めきれていない。そんなもどかしさと、ずっと向き合っている。

モテた記憶もないけど頑張ってきた

独身で、女性にモテた経験もない。高校時代も今も、誰かの特別になれた記憶がない。それでも、自分なりにまじめに生きてきたつもりだ。地味で目立たないけど、真面目に、愚直に。そんな自分を、もう少しだけ誇りに思ってもいいのかもしれない。

ただひたすら一人でバットを振っていた頃

高校時代、日が暮れるまで黙々と素振りをしていた。誰に褒められるわけでもなく、ただ「うまくなりたい」と思ってバットを振っていた。今思えば、その頃から「努力の先に何かがある」と信じていたんだと思う。今も、その延長線上にいる。

今は書類と向き合うだけの毎日

あの頃のバットは、今のパソコンに変わった。球場の土は、今の事務所の床になった。でも、やってることは同じだ。ただ、毎日向き合っている。自分のためでもあり、誰かのためでもある。その積み重ねが、自分を作っているのかもしれない。

仕事でしか自分を評価されない寂しさ

「先生」として評価される一方で、人としての自分はどこにもいないような気がする。褒められるのは仕事の成果ばかりで、自分という存在そのものには、誰も興味を持っていないように感じてしまう。そんな寂しさを、ずっと抱えている。

忙しさは誤魔化しにはなるけれど

仕事に忙殺されていると、自分の中の虚しさを忘れられる。だから、忙しいことは時に救いでもある。でも、心がついてきていないときは、ただの逃げ場になってしまう。気がつけば、孤独の上に仕事だけが積み重なっている。

ふと立ち止まると怖くなる

夜、仕事がひと段落して、ふと息をついたとき。「このままでいいのか」という問いが、心の奥底から湧き上がってくる。自分の人生を誰が見てくれるのだろう。誰のために頑張っているのか。その答えが見つからずに、また次の日が始まる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。