相手の趣味に合わせられない

相手の趣味に合わせられない

相手の趣味に合わせられないという悩み

司法書士という職業は、なかなか自分の時間をつくりにくい。日中は役所とのやりとり、夜は書類の整理、そして土日も相談の予定が入る。そんな生活を続けていると、いつの間にか趣味らしい趣味がなくなってしまった。ある日、久しぶりに会った知人との会話で「最近ハマってるものとかあるの?」と聞かれ、言葉に詰まった自分がいた。相手の趣味に「合わせる」こともできず、自分の中にも「出せる趣味」がない。この空白に、なんとも言えない孤独を感じてしまう。

「合わせよう」と思うだけで疲れる自分

これまで何度か、相手に合わせようと頑張ったことはある。仕事帰りの疲れた身体に鞭打って映画館に出向いたり、休日に慣れないアウトドアに付き合ったりもした。でも正直なところ、楽しめてはいなかった。そういう場では、心の中に「早く終わらないかな」という時計が常に動いていたように思う。笑顔を作ることすら、努力が要るのだ。

無理して笑っていた過去のデート

思い出すのは、数年前のデート。相手の趣味がプロ野球観戦だった。当時は「せっかくだから体験してみよう」と前向きな気持ちで球場に行ったのだが、正直なところ、ルールも選手も分からず、雰囲気にも馴染めなかった。歓声に囲まれながら、自分だけが異物のように感じられて、「ああ、俺、ここにいていいのかな」って不安になった。帰り道もぎこちなくて、無理して合わせるって、こんなにしんどいものなのかと実感した。

映画もスポーツ観戦も、正直何が面白いのか分からなかった

別の相手と行った映画館でも同じような経験をした。恋愛映画で、隣の彼女は何度も涙ぐんでいたけれど、自分は内容が頭に入らず、周りが泣いてるタイミングに合わせて「泣いたふり」をしていた。たぶん、そういう自分がバレていたと思う。結局、心が動いていないと、どんなに合わせようとしても演技になるし、逆に相手にも伝わってしまうんだと思う。

趣味を合わせる=興味を持てという無言の圧

「ちょっとでも興味持ってくれたら嬉しいな」という言葉の裏にあるのは、「できれば同じものを楽しんでくれたらいいのに」という期待。期待されるのは悪いことじゃない。けれど、その期待に応えられない自分を責めるようになると、どんどん自分を追い詰めてしまう。相手の趣味に合わせられない自分は、どこか欠陥品のような気がしてしまう。あの“無言の圧”が、けっこうつらいのだ。

趣味に関しては「個人主義」が許されない空気

今の世の中、個性を尊重しようという風潮があるようでいて、実際の人間関係では「共通の話題」や「共有の楽しみ」が重視される。特にプライベートな場では、趣味が合うかどうかで関係性が左右されることが多い。自分のように趣味がない、もしくは興味が合わない人間は、その輪の中にうまく入れない。

合わせることでしか距離を縮められないという前提

婚活パーティーや紹介で出会った女性とのやり取りでも、「一緒に〇〇したいですね」という話がよく出る。だけど、心から「一緒にやりたい」と思える趣味が相手と被ったことは一度もなかった。無理してでも「やります!」と言っていたけど、そうやって合わせないと関係を続けられないのかと、だんだん気力も薄れていった。趣味って、そんなに強制されるものだったっけ。

「一緒に楽しもう」に潜む同調圧力

「一緒に楽しもうね」って、優しさのように聞こえるけど、実はけっこう怖い言葉かもしれない。楽しめない側からすれば、「楽しまないといけない」プレッシャーになる。楽しむって、本来もっと自由なもののはずなのに。気づけば、「相手の気分を損ねたくない」「自分が悪者に見られたくない」って思いから、どんどん嘘の自分を演じるようになっていた。

趣味の話になると黙ってしまう飲み会

仕事関係の懇親会や地元の集まりでも、話題はだいたい「最近ハマってるもの」になる。そこでサラッと出てくる「キャンプ」「海外ドラマ」「バイク」なんて話題に、まったく入っていけない。黙ってうなずくだけの自分が、ますます浮いて見える。

「何が好きなんですか?」と聞かれても…

この質問、本当によくされる。でも、すぐに答えられない。答えようにも、自分には語れるような趣味がないのだ。正直に「趣味ないですね」と言うと、「え、珍しいですね」と変な空気になるし、かといって無理に何かを作るのも嘘になる。話をつなぐための当たり障りのないネタを探すのに必死になる自分が、なんとも情けない。

仕事の話なら饒舌なのに、プライベートになると沈黙

司法書士としての仕事の話なら、いくらでも語れる。でも、話がプライベートになると、急に口数が減る。趣味がない、休日も仕事、恋愛経験も少ない。だからなのか、自分という人間を“面白みのない存在”のように感じてしまう瞬間がある。これが、自分の人生かと思うと、時々虚しくなる。

趣味の共有よりも、理解の共有がほしい

無理に趣味を合わせようとすることに疲れ果てた今、自分が求めているのは「趣味の一致」じゃなくて、「分かろうとしてくれる姿勢」だったんじゃないかと思う。お互いの違いを認め合える関係、それこそが本当の意味での共感なのかもしれない。

「興味がない」と言える関係性のありがたさ

最近、唯一心を許せる知人に、「それ、俺は興味ないな」と言ったことがある。すると相手は笑いながら、「まあ、俺が好きだからいいんだよ」と返してくれた。その瞬間、すごくホッとした。無理に合わせなくても大丈夫なんだと思えることが、こんなにも安心できるなんて、自分でも驚いた。

趣味が合わなくても成り立つ関係もある

趣味が一致しないと、関係が続かないというのは思い込みかもしれない。お互いの好きなことを否定せず、それぞれを尊重できれば、同じ時間を別の形で楽しむこともできる。むしろ、違うからこそ新しい視点を知れるという面もある。

無理に合わせないからこそ、尊重が生まれる

無理して付き合うのではなく、「行っておいで、俺はこっちやってるから」で済む関係。それって案外、大人の付き合い方かもしれない。共有するより、干渉しないほうがうまくいくケースもある。そういう付き合いがもっと認められてもいいのではないかと思う。

趣味の一致ではなく、価値観の一致

結局、趣味は生活の一部であって、全てではない。そこよりも、「どういうことに価値を感じるか」「どんな人間でありたいか」といった根本の価値観が合っているかどうかの方が大事だと思う。自分にとっては、そこが一致していれば、たとえ趣味がまったく違っていても、一緒にいられる自信がある。

そもそも、自分に「趣味」と呼べるものがあるのか

こうして振り返ってみると、自分の中にすら「夢中になれるもの」がなくなっていたことに気づかされる。仕事漬けの毎日で、何かを楽しむ余裕すら忘れていたのかもしれない。

忙しさにかまけて空っぽになった日常

朝起きて、仕事して、帰って寝るだけ。そんな生活を続けていると、感情の起伏すら鈍ってくる。何かを見て心が動くこともなくなってしまった。もしかすると「趣味に合わせられない」のではなく、「何かに興味を持てなくなっていた」だけなのかもしれない。

趣味がないことが、会話を狭める原因になっている

趣味は、会話の入り口としてはとても便利だ。でも、それに頼りすぎると、趣味がない人間は会話から締め出されてしまう。自分を表現する手段がないのは、不利だなと思う。でも無理に作っても意味はない。今はただ、少しでも「本当に心が動くこと」を探してみたい。そこから始めたいと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。