登記より難しい人の気持ち

登記より難しい人の気持ち

書類より厄介な感情のもつれ

登記という作業は、要件さえ満たしていれば答えは一つです。記載ミスがなければ、淡々と処理は進み、法務局も無機質に受け付けてくれる。でも、人の気持ちはそう簡単にはいきません。依頼者同士の確執、兄弟間のわだかまり、遺産をめぐる想い——。そうした「感情のもつれ」は、書類の中には収まりきらず、事務所に重苦しく漂います。書類と違って、人の心には「正解」がない。そう思い知らされる毎日です。

法的手続きはスムーズでも人間関係はこじれる

先日、相続登記の相談に来られた三兄妹のケースがありました。必要書類は整っており、手続きとしては何の問題もない案件でした。ただ、実際には話がまったく進まない。三人とも表面上は冷静でも、微妙な空気が事務所を支配していました。あとで聞いた話ですが、長年の確執があり、書類にハンコを押すことすら「敗北」と感じていたそうです。登記は一瞬で終わっても、気持ちは置き去りにされたまま。何とも言えない後味が残りました。

登記は正しければ通るけど

たとえば、所有権移転の登記は必要な書類が揃っていれば数日で完了します。印鑑証明、登記原因証明情報、委任状——どれもルールが明確です。間違っていれば訂正すればいいし、足りなければ補完すれば済む。理詰めで進めば、大きな問題は発生しません。だからこそ、手続きの「正しさ」に集中すれば、仕事は確実に終わります。でも、人の感情はそうはいかないのです。

相手の感情は理屈じゃ割り切れない

「あの人は昔からずるい」とか「母親の介護をしたのは私だけ」といった感情論は、どれだけ丁寧に話を聞いても、登記簿には反映されません。でも、それが根っこにある以上、無視して手続きを進めても必ずどこかで破綻します。理屈が通じない世界に足を踏み入れるたび、司法書士の限界を痛感します。理屈と感情、その溝に毎回引きずり込まれるような気持ちになります。

争いの裏にある本音

登記の相談に来る人の多くは、何らかの「争い」を抱えています。しかし、争っている理由を深掘りしていくと、本当は怒っているのではなく、寂しかったり、認めてもらいたかったりする気持ちが見えてきます。それが一番厄介です。こちらが下手に口を出すと余計にこじれる。かといって無視すれば、何も解決しない。気を遣いすぎて、帰宅後どっと疲れる日も少なくありません。

相続トラブルが教えてくれたこと

私が以前担当した案件では、兄と妹が遺産をめぐって激しく対立していました。原因は遺言書の有無とか、不動産の評価額ではなく、実は子どもの頃の親からの愛情の偏りでした。「兄ばかり可愛がられてきた」「私はいつも我慢してきた」。そんな心の声が、登記相談という形で噴き出してきたのです。法的にどうこうより、心のしこりをどう扱うかの方がずっと大変でした。

感情の根っこにあるのは寂しさ

書類のやり取りがいくら円滑に進んでも、「感情の処理」ができていないと、最後には揉めます。寂しさや孤独感、誰かに理解してもらいたいという気持ちが、見えないトラブルを呼ぶのです。相手を責める言葉の裏にある「わかってほしい」という想いを感じ取ったとき、こちらも心が揺れます。結局、人ってみんな、寂しいんですよね。

司法書士にできることとできないこと

私は司法書士として、手続きの代行や法的な助言はできます。でも、「気持ちの代弁」まではできません。時には、涙ながらに相談されても、「それは私の役割じゃない」と自分に言い聞かせるしかない場面もあります。無力感を覚える日も多い。でも、そこに寄り添わないと信頼もされない。法律と心のあいだで、毎回揺れながら仕事をしています。

感情を受け止める覚悟

年々、登記の技術よりも「聞く力」の方が問われるようになってきました。昔は、黙って淡々と処理するスタイルでも通用していましたが、今は違います。依頼者は話を聞いてほしい、共感してほしい、でも指示は的確にしてほしい。そんな複雑なニーズに応えるためには、こちらにも覚悟が求められます。正直、くたびれる仕事です。

事務所で泣かれる日もある

実際、事務所で涙を流す依頼者は少なくありません。書類の話をしていたはずが、いつの間にか人生相談になり、気づけばハンカチを差し出している自分がいる。特に一人で来られた年配の方は、話を聞いてもらう場が少ないのか、こちらが何も言わずとも話し続けます。私はただ「うんうん」とうなずくだけ。でも、そのうなずきに救われたと帰り際に言われると、泣きそうになります。

ただの代書屋じゃ務まらない

よく「司法書士って代書屋でしょう?」なんて言われますが、現場にいるとその言葉の軽さに呆れることがあります。代書だけならAIで済む時代。けれど、感情を受け止める役目は、いまだに人間しか担えません。その「人間らしさ」が求められる場面が多すぎて、こっちが情緒不安定になりそうです。特に私は打たれ弱いので、毎日がギリギリです。

元野球部のメンタルでも正直しんどい

昔は野球部でメンタルも体力もそれなりに鍛えたつもりでしたが、この仕事の「感情労働」はまた別物です。グラウンドでは理不尽も気合いで乗り切れた。でも、目の前の依頼者の涙には、気合いなんて効きません。ただ一緒に沈み込むしかないときもあります。試合のように勝ち負けがはっきりしていればまだいい。でもここは、終わりの見えない延長戦です。

独身司法書士の夜

誰かに愚痴をこぼしたくても、家には誰もいません。事務員にも気を遣って本音は言えず、深夜のテレビと缶チューハイが唯一の癒やし。モテないことはもう諦めましたが、それでもたまに、仕事で感じた悲しさを誰かと分かち合えたらと思います。でもそれができないから、こうして文章を書いてるのかもしれません。

誰にも相談できない心の詰まり

仕事の愚痴を誰に言っても、「そんなもんだよ」で終わってしまう。特にこの仕事は、表向き「先生」と呼ばれ、弱音を吐きづらい雰囲気があります。だからこそ、溜まっていく心の澱。たまにふと、仕事も人間関係も全部投げ出したくなる夜があります。そんな時、昔の野球仲間に連絡しても、家庭持ちが多くて気軽には会えないんですよね。孤独は、じわじわと沁みます。

正解のない現場に立ち続けるということ

「これが正しい」と言える場面は、この仕事では本当に少ない。人の気持ちが絡む限り、最善を尽くしても不満が残る。そんな中でも、毎日現場に立ち続けるしかありません。情熱とか使命感とか、そんな綺麗ごとでは続けられない。けれど、誰かがやらないといけない。そう思いながら、今日も登記簿を開いています。

「先生」と呼ばれる違和感

この肩書きに、最初から違和感がありました。自分は別に偉くもないし、万能でもない。ただ、少し法律を知っているだけの人間。でも「先生」と呼ばれることで、期待され、頼られる。その重さが、時に苦しく感じます。「普通のおっさん」として接してくれたら、どれだけ楽だろうと思う日もあります。けれどそれでも、頼られたからには応えなければという責任感が、今日も背中を押します。

本当はただの相談係なのに

司法書士という職業の実態は、書類作成以上に「人生相談の窓口」だと思っています。何をどうすればいいか迷っている人の背中を、ほんの少し押す役目。答えは出せないけれど、一緒に悩むことはできる。そういうスタンスが、私には合っているのかもしれません。誰かの人生の片隅に、ちょっとだけ関われたなら、それでいい。そう思えるようになったのは、最近です。

偉くもないし完璧でもない

この仕事をしていると、周囲から「きっちりしてそう」「しっかりしてそう」と思われがちです。でも本当は、日々ミスを恐れながら、ギリギリの精神状態でやっています。完璧な人間じゃない。モテないし、不器用だし、夜中にラーメンをすするような生活。そんな自分でも、この仕事を通じて誰かの助けになれていたら、それが何よりの救いです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。