誰かと食べるごはんがこんなに美味しかったなんて昔は知らなかった

誰かと食べるごはんがこんなに美味しかったなんて昔は知らなかった

あの頃の食卓には温かさがあった

子どもの頃、夕飯時になると家の中に漂ってくる味噌汁の香りが、どこか心を落ち着かせてくれていた。仕事帰りの父が不機嫌そうにテレビをつけ、母はそれを気にする様子もなく「ごはんできたよ」と明るく声をかける。私は宿題を投げ出して、テーブルについた。正直、母の料理はそんなに凝っていなかった。でも、なんていうか、みんなで食べる時間が確かに「ごちそう」だったように思う。

味噌汁の湯気越しに見えた家族の顔

あの湯気は、ただの水蒸気じゃなかった。湯気越しに見える父の顔や、妹が味噌汁の熱さに文句を言ってる様子。そのすべてが、今思えば宝物だったのかもしれない。味の記憶って不思議で、再現しようとしてもできないのに、ふとした拍子に思い出す。今はコンビニで買った味噌汁が多いけど、あの頃の味噌汁とは、まるで別物に感じてしまう。

父の文句と母の笑い声

父はいつも疲れていて、文句が多かった。「今日の味噌汁、ちょっとしょっぱいな」なんて言っては、母が「じゃあ自分で作ってみたら?」と笑い飛ばしていた。そんなやりとりも含めて、あの食卓には人間の温かさがあった。今なら、母の笑いには余裕じゃなくて、きっと我慢や気遣いが詰まっていたんだろうなと気づく。

黙っても許された安心感

黙って食べても、何も言われなかった。会話がない時間も、気まずさはなかった。むしろ、そこに安心感があった。今、誰かと食べるときに黙ると「疲れてる?」とか気を遣わせてしまう。でもあの頃は、黙っていても心がつながっている感覚があった。食卓とは、そういうものだったんだと思う。

コンビニ弁当の味がしない理由

最近は、昼ごはんも夜ごはんもコンビニ。忙しさにかまけて、温めてすぐに食べられるものばかりだ。でも、不思議と味を感じない。「味が薄い」とかじゃなくて、記憶に残らない味。それって、たぶん一緒に食べる相手がいないからなんじゃないかと思う。誰かと会話しながら食べたら、もっと味わえるんだろうな。

手軽さの代わりに失ったもの

レンジでチンして、スマホを見ながら食べて、あっという間に終わる食事。こんなに簡単になったのに、なぜか心は満たされない。手軽さと引き換えに、何か大事なものを失ってしまった気がする。それは、たぶん「時間」じゃなくて「誰かの存在」だったんじゃないかと、ふと思う。

電子レンジのチンでは心は温まらない

物理的には温かい。でも、心は冷えたまま。電子レンジで温めるごはんは、確かに便利だけど、そこに誰かの手や気持ちは込められていない。一緒に「いただきます」を言うだけで、心がほぐれて、食事の時間が特別なものになる。そういう経験が少なくなって、食べることが作業になっていくのが怖い。

誰かと食べるだけで味が変わる不思議

高校時代、野球部の仲間と食べた牛丼の味は今でもはっきり覚えている。牛丼自体はチェーン店の安いやつだったけど、部活終わりに汗を流して食べるそれは、どんな高級料理より美味しかった。誰かと一緒に食べると、同じごはんでもなぜか味が変わる。あれは、本当に不思議な感覚だ。

高校時代の部活終わりの牛丼

試合で勝った日も負けた日も、帰り道に立ち寄った牛丼屋。みんなでわいわい言いながら、どんぶりをかき込む。練習の疲れもあって、味の細かいことなんてわからなかった。でも「うまいな!」と誰かが言うだけで、自分の口の中にもその「うまさ」が伝染する。味って、共有されるものなんだと初めて知った。

うまいかどうかじゃなくて腹を満たせたことが喜びだった

財布の中身はスカスカで、トッピングなんてできなかった。でも、大盛りを頼んで満腹になれたときの満足感は、今の高級ランチよりも勝っていたかもしれない。そこには、仲間と過ごす時間と、戦ったあとの達成感があった。味は、空腹だけじゃなくて心の充足でも変わる。

仲間の存在が調味料だったあの日々

塩も醤油も大事だけど、あの日は「仲間の存在」が一番の調味料だった気がする。黙っていても、笑っていても、そこに誰かがいてくれることが安心だった。今は、一人で食べることが当たり前になってしまって、それが当たり前と思い込もうとしている。でも、本当は今でも誰かと食べたいのかもしれない。

仕事終わりに一人で食べるラーメンの味気なさ

登記の締切に追われ、帰りが夜遅くなることも多い。そんなとき、開いているラーメン屋にふらっと入って一人で食べる。味は美味しいはずなのに、どこか味気ない。目の前のラーメンより、空いた隣の席が気になってしまう。誰かと「うまいな」と笑い合えるだけで、このラーメンの味は変わる気がする。

誰かと分け合うってこんなに大事だったのか

子どもの頃は、兄弟と唐揚げを奪い合っていた。「なんで自分のが少ないんだよ!」って怒ってたけど、今思えば、それって豊かな時間だった。誰かと食べ物を分け合う。そこには、競争もあったけど、同時に信頼もあった。今の私は、それを分け合う相手がいないことを、ようやく寂しいと感じている。

司法書士という職業がもたらす孤食の現実

この仕事は、集中力と忍耐が求められる。それに、間違いが許されないプレッシャーもある。気を張って仕事を終えたあと、食事の時間は数少ないリラックスタイムのはずなのに、現実は一人。スマホ片手に、淡々とごはんを流し込む自分がいる。誰かと食べる時間が、これほど貴重になるとは思わなかった。

忙しさに追われる昼休み

書類提出の合間、法務局の近くでパンをかじる。時間に追われて、味わう余裕なんてない。むしろ「栄養さえ取れればいい」とさえ思っている自分に、ふと虚しさを感じる。事務員も一緒に食べようと誘っても、業務に追われてそれどころじゃない。孤独な昼ごはんが当たり前になっていく。

気がつけばデスクでパンひとつ

最初の頃は外でランチを取る努力をしていた。でも、段々と「その時間がもったいない」と思うようになってしまった。今では、コンビニのパンと缶コーヒーが定番。デスクでメールを見ながら食べるそれは、もはや食事というより作業の一部になってしまっている。

事務員と交わす今日も忙しいですねのひと言

せめてもの救いは、事務員との何気ない会話。昼前に「今日もバタバタですね」って顔を見合わせるだけで、ちょっと気が緩む。ほんの数秒でも、人と感情を交わせることで、午後のモチベーションが変わる。孤独な仕事でも、人とごはんを共にする時間があれば、心の持ちようは全然違う。

食事が義務になる日々

本来、食事は楽しみであるべきなのに、気がつけば「とらなきゃいけない義務」になっている。栄養補給、エネルギー補充、それだけ。そうしているうちに、味覚だけでなく、感情まで鈍くなっていくような気がする。食事って、ただの行為じゃなく、感情を回復する時間でもあるのに。

美味しいより早いが優先される

今日のごはん、何を食べたか思い出せない。そんな日が増えた。美味しかったかどうかより、「早く済ませられたかどうか」が基準になってしまっている。そうなると、食事は無機質な行為になり、心がすり減っていくのを感じる。これでいいのかと、自問する夜もある。

それでも一緒に食べる時間があれば救われる

たまに、友人と外で食べる機会がある。居酒屋で他愛ない話をしながらの食事は、それだけで特別な時間に感じる。料理の味というより、会話や空気が、ごはんを美味しくしてくれる。誰かと一緒に食べることの力を、歳を重ねてから痛感している。できることなら、また誰かと唐揚げを奪い合いたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓