必要とされていない気がして机にうつ伏せになる午後

必要とされていない気がして机にうつ伏せになる午後

ふとした瞬間に襲ってくる自分って必要なのかという疑問

業務は回っている。登記の書類も整っているし、法務局から戻ってきた完了証の束を見れば、今日も自分は仕事をしたと分かる。でも、ある瞬間、不意に胸の奥がスンと冷えて、「自分って、今、誰かに必要とされてるのかな」と思ってしまう。誰に言われたわけでもない。でも、そう感じてしまう午後がある。たとえば、昼休憩から戻ってきたとき。カップ麺の湯切りをして、ぼんやり窓の外を見ているとき。そんなときにふっと、空っぽになる。必要とされているという実感がないと、どうしてこんなにも不安になるのか、自分でもよく分からない。ただ、あの虚しさは、たまらない。

依頼は来るのに満たされない心の正体

電話は鳴るし、紹介もある。業務自体は順調だといっていい。けれど、そのすべてが「業務」でしかない気がするのだ。感謝の言葉はあっても、あれは社交辞令であって、本当に「この人がいて助かった」と思われているのか、不安になる。数字や完了件数で評価される世界のなかで、感情の居場所がだんだん削られていく感覚がある。そんなとき、何の前触れもなく「先生、本当に助かりました」って言われたりすると、思わず涙が出そうになる。というか、泣いていることに気づかれないよう、俯くしかない。それぐらい、誰かに必要とされることは、人間にとって大事なんだと気づかされる。

書類をこなす手は動くけれど心が動かない

朝9時。パソコンを立ち上げ、メールをチェックして、登記申請をして、郵便物を整えて。動作はスムーズにできる。もはや手が覚えてしまっている。でも、心が伴っていない日がある。ロボットのように業務をこなしていると、逆に自分の存在が薄くなっていくような気すらする。かつては一件一件の依頼に喜びを感じていた。でも今は、完了した瞬間に「次」が迫ってきて、感慨に浸る間もない。ただこなすだけの日々が、必要とされている実感を奪っていくのだ。

電話が鳴っても嬉しくない日がある

かつては電話が鳴ると、どこかで「頼りにされている」と感じられた。ところが今は、着信音が鳴ると、まず「何かトラブルか?」と身構えてしまう。そう思ってしまう自分が、少し嫌だ。依頼者の不安を受け止めるのが仕事である以上、負の感情にさらされるのは当然なのだが、それを受け止める側も人間だ。ずっと受信モードのままでは、心が擦り切れてしまう。だからたまに、電話の音が聞こえないふりをして、机にうつ伏せになる。そんな日もある。

ひとり事務所の重圧と孤独の狭間で

地方の小さな司法書士事務所。所員は僕と事務員さんの二人。ありがたいことに優秀な方で、書類管理から顧客対応までしっかりやってくれる。でも、夕方になって事務員さんが帰宅すると、事務所には僕ひとり。パソコンのファンの音だけが響く空間で、ひとり残業するその静けさが、妙に胸に沁みる。必要とされているようで、されていないようで。まるで影法師になった気分だ。誰にも見られていない気がして、存在が曖昧になる。

事務員さんが帰った後の沈黙の重さ

19時すぎ、玄関が閉まる音がして、気がつけば一人。誰かと会話を交わしていた数分前の空気が嘘のように、沈黙が場を支配する。テレビも音楽もかかっていない。だからこそ、心の声がうるさい。今日の対応はあれでよかったか。あの言い方は冷たくなかったか。いろんな声がぐるぐる回る。人間は誰かと対話して初めて、自分を保てるのかもしれない。独り言が増えていく自分を見て、少し怖くなる。

話し相手がいないと感情の整理もできなくなる

感情って、誰かに話すことで整理されるものだと最近わかってきた。愚痴でも悩みでも、話しているうちに「あ、こう考えればいいかも」と自分で気づけたりする。でも、それを話す相手がいないと、思考が自分の中でぐるぐるループして、結局どこにも行き着かない。週に一度、昔の同期と電話で話す時間だけが救いだ。どんなに忙しくても、その時間だけは取るようにしている。言葉にしないと、感情は腐っていく。

弁護士でも行政書士でもない中間の孤独

司法書士という仕事は、法曹界にいてもどこか中間に位置している。弁護士ほど注目されることもなく、行政書士ほど業務の幅が広いわけでもない。登記の専門職として誇りはある。でもその一方で、法律の世界の「隅っこで作業している感」が拭えない。求められる場面はあるが、スポットライトは当たらない。必要とされているはずなのに、透明人間になったような疎外感を覚えるのだ。

必要とされたいは甘えなのか

40代にもなって「誰かに必要とされたい」なんて言うのは、青臭いと思われるかもしれない。でも、必要とされたいという欲求は、甘えじゃなくて人間の根本だと思っている。誰かに期待され、役割を果たすことで、自分の存在価値を確認する。これはきっと、子供の頃からずっと変わっていない。野球部で声を張り上げていたあの頃も、ベンチ入りできることが嬉しかったのは、役に立てていると感じたからだ。

結果で語る職業に感情の居場所はあるか

司法書士の世界は、結果がすべて。登記が完了すれば合格。不備があれば減点。それ以上でも以下でもない。でも人間は、数字だけで満たされない。効率的に処理しているほど、どこかで空虚感が膨らんでいく。機械的にこなしていれば評価されるけれど、「ありがとう」と言ってもらえるわけではない。感情を介在させる余地が少ないこの職業で、どうやって自分の気持ちと折り合いをつけていくのか、それが今の課題だ。

便利屋になってしまいそうな自分への警告

「とりあえず聞いてみよう」そう言って、些細な相談が持ち込まれることがある。人の役に立ちたいと思ってこの仕事をしている。だけど、気づけば“何でも屋”になってしまっていることもある。本来の専門性とは違うところで消耗して、「自分は何をしてるんだろう」と我に返る日もある。便利だから呼ばれているのか、それとも信頼されているのか。そこには大きな違いがある。自分を見失わないようにしたい。

ありがとうの一言に救われる日もある

どんなに疲れていても、「先生がいて助かった」と言われるだけで、心の中がふわっと温かくなることがある。人のためにやっているつもりはなかったはずなのに、その一言で報われた気持ちになる。言葉には力があると、心から思う瞬間だ。必要とされたい、という気持ちは決してわがままじゃない。人との関わりの中で、自分の価値を確かめていたい。ただ、それだけなんだと思う。

小さな言葉に心がほどける瞬間

先日、相続登記の相談に来た高齢の女性が、帰り際にそっと言った。「あなたがいてくれてよかった」。その言葉が、どれだけ僕の心を軽くしたか、たぶん本人は知らない。泣かないように、あえて雑談でごまかしたけれど、本当はありがとうと何度も言いたかった。言葉一つで人の心は動くし、救われる。そういう小さな奇跡が、この仕事のなかにちゃんとある。そのことを、忘れずにいたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。