スーツ着てりゃ大丈夫に見えるらしい

スーツ着てりゃ大丈夫に見えるらしい

スーツを着るだけで一人前扱いされる不思議

朝、鏡の前でネクタイを締めるたびに思う。「今日もそれなりに大人として見られるな」と。別に昨日と何も変わっていないのに、スーツを着ているだけで“ちゃんとしてる人”扱いされる。地方の司法書士なんて職業柄、人と会う機会も多くて、スーツが制服みたいになっている。だが、その中身がどうあれ、見た目さえ整っていれば「大丈夫そう」に見えるらしい。実際には毎日の業務に追われ、心の余裕なんてほとんどない。なのに、身なりがきちんとしているだけで「さすが先生ですね」とか言われると、なんとも言えない虚しさがこみ上げてくる。

見た目だけで安心されることの違和感

お客様との相談で、一度も内容を詳しく説明しなくても、「あ、もう安心しました。やっぱりスーツ姿だと信頼できますね」なんて言われたことがある。笑顔で応対しながら、内心では「俺の中身はどうでもいいんかい」と突っ込んでいた。たしかに信頼されるのは嬉しいが、それが外見からくるのだとしたら、なんだか自分が偽物みたいに思えてくる。まるで演劇の衣装のように、スーツが僕を“それっぽく”見せてくれているだけ。実際のところ、心の中はぐちゃぐちゃで、「こんがらがった書類の山に押しつぶされそうなんですが…」と言いたくなる日も多い。

本音では毎日手探りで生きている

司法書士になってもう十数年になるが、未だに「これでいいのか?」と思うことばかりだ。新しい制度が導入されれば覚えることが増えるし、役所とのやり取りも一筋縄ではいかない。事務員に相談したくても、向こうも忙しくて話しかけづらい。結局は一人で悶々と抱え込んでしまう。周囲からは「ベテランですね」と言われるけど、僕からしたら毎日が新しい課題の連続だ。スーツだけが安定していて、中身の自分は常にふわふわしている。正直、怖いと思うこともある。

肩書きとスーツに助けられてる現実

それでも何とかやれているのは、やっぱり“司法書士”という肩書きと、スーツ姿の自分が周囲に安心感を与えているからなのだろう。お客様の顔がパッと明るくなる瞬間を見るたびに、「見た目の力ってやっぱり大きいんだな」と感じる。たとえそれが虚勢であっても、結果として相手を安心させられるのなら、それも仕事の一部なんだと割り切るしかない。問題は、そのスーツを脱いだあと、自分自身の心の穴がどうにも埋まらないってことなんだけどね。

孤独はスーツの内側に潜む

一見、ちゃんとしてるように見えて、実はスーツの内側には孤独がうずくまっている。お客様と笑顔で話したあと、ふと事務所に戻ると静けさが染みる。会話が終わったとたん、世界から音が消えたような気がしてしまう。スーツを着ている間は、誰かとつながっていられるような錯覚がある。でも、脱いだ瞬間、そのすべてが剥がれてしまう。僕にとってスーツは、社会と自分をつなぐ接着剤みたいな存在なのかもしれない。

背筋を伸ばすほど心が沈む朝

朝、背筋を伸ばしてスーツに袖を通す。清潔感を出すためにワイシャツにもアイロンをかける。でも、それをやってる自分が妙に空しく感じる日もある。誰のためにこんなに見栄を張ってるんだろう?自分自身に向けたカモフラージュなのか、それとも周囲に「自分はちゃんとやれてますよ」とアピールするためなのか。たしかに、崩れた服装で依頼人と会うわけにはいかない。でも、スーツが“自分を保つための仮面”になっていることに気づいてしまうと、少し悲しくなる。

打ち合わせ帰りの一人飯がこたえる

仕事終わり、車で移動中にふと立ち寄るファミレスやラーメン屋。隣の席ではカップルが笑っている。こっちはネクタイを緩めたまま、スマホをいじって黙々とラーメンをすするだけ。店員には「おひとりさまですか?」と聞かれ、「はい」と答えるその瞬間、自分の孤独がスーツ越しにもにじみ出てる気がしてならない。仕事で疲れたあとに、誰かと他愛もない話ができる人がいればどれだけ救われるだろう。けれど、そんな相手はいないのが現実だ。

声をかける人がいないネクタイの外し方

帰宅後、玄関で靴を脱ぎ、ネクタイをほどく。誰に見せるわけでもないが、それが一日の終わりの儀式になっている。でも、部屋には誰もいない。ネクタイを外しながら「今日も終わったな」と独り言をつぶやく。これが毎日の習慣になって久しい。SNSで「ただいまー」とかつぶやいても、特に反応があるわけでもない。たまに、自分が“透明人間”になったような気がして、怖くなる。きっと、スーツがなければ僕はただの寂しいおじさんだ。

お客様対応では頼られるのに自分は迷子

事務所での僕は、いわば“相談役”だ。相続登記や債務整理など、皆さん人生の大事な場面で僕を頼ってくれる。嬉しいし、ありがたい。でも、ふと我に返ると「じゃあ俺の悩みは誰が聞いてくれるんだろう」って思ってしまう。依頼人の不安は聞けても、自分の不安は吐き出す場所がない。立場的に“聞く人”であり続けなければならない分、ますます自分の感情は押し殺されていく。スーツを着てることで、その“聞く役”を演じやすくなっている気もする。

信頼されるほど自分が空っぽに感じる

「先生にお願いして良かったです」と言われるたび、笑顔を返しながらも心の奥では少し空虚な気分になる。もちろん仕事のやりがいはある。でも、信頼を受けるほどに「ちゃんとしなきゃ」「失敗できない」と自分を締めつける力が強くなる。気づけば、自分が何を感じているのかもわからなくなってくる。感情を“スーツの中”に隠してしまったまま、引き出しの奥にしまい込んでるような感覚だ。

事務員の何気ない一言に救われることも

そんな中、ふとした瞬間に救われることがある。たとえば、事務員が「今日は天気いいですね」と声をかけてくれるだけで、少し心が和らぐ。たわいない会話だが、それだけで「ここにいてもいいんだ」と思えるから不思議だ。スーツ越しではなく“素の自分”が一瞬だけ許される気がする。結局、人は誰かに言葉をかけてもらうことで、存在を確認してるのかもしれない。

元野球部のプライドはどこへ消えた

昔は声も大きくて、仲間に囲まれていた。高校時代、野球部でベンチに座ってたときのあの一体感。どんなに練習がキツくても、孤独じゃなかった。だけど今は違う。声を出すことすら少なくなり、事務所に一人きりで書類とにらめっこ。あの頃は「大人になったらもっと楽になれる」と思ってたが、今の方がずっとしんどい。たまにユニフォーム姿の高校球児を見ると、目頭が熱くなる。

仲間がいた頃と比べてしまう夜

夜、寝る前にふと高校時代の写真を見返す。仲間とふざけあって写ってる自分が、今の自分に微笑んでいるような気がして、胸が詰まる。仲間がいたあの頃は、自分が孤独になるなんて思ってもみなかった。だけど、現実はこうして一人で眠りにつく毎日。スーツを脱いだあとの自分が、一番無防備で、一番弱い。そんな夜が続くと、「本当にこのままでいいのか」と考えてしまうことがある。

一人練習のつらさが今と重なる

誰もいないグラウンドで素振りをしていたあの日々が、今の事務所での仕事に重なる。結果がすぐ出るわけでもなく、誰かに褒められることもない。でも、あの一人練習が自分を作ったとも思っている。今だって同じ。地味で、孤独で、誰に評価されなくても、自分がやるべきことを続けるしかない。そうやって積み上げていくものが、いつか誰かの役に立つと信じて、今日もまたスーツに袖を通す。

スーツに頼らずに生きるには

スーツはたしかに便利だ。着るだけで“まともな大人”に見える。でも、本当の意味で自分を保てるのは、スーツではなく「誰とつながっているか」「どんな言葉をかけ合えるか」だと思うようになった。スーツを脱いでも揺るがない自分でいるには、もっと自分を肯定してあげなきゃいけない。たまには弱音を吐くのも、悪くないと思えるようになってきた。

ちょっと弱さを見せてもいいと思えた瞬間

ある日、依頼人との面談で「先生でも不安になることってありますか?」と聞かれた。思わず「めっちゃありますよ」と笑って答えたら、相手も安心したように笑っていた。その瞬間、自分が“先生らしくあろう”と無理していたことに気づかされた。完璧じゃなくていい。ちょっとぐらい弱さを見せても、人との距離は縮まるんだと実感した出来事だった。

スーツを着ない休日に見えた景色

久しぶりの休日、Tシャツにジーンズで近所の公園を散歩した。誰にも見られていない自分の姿が、なんだか自由に感じられた。犬を連れた老夫婦が笑い合ってるのを見て、少し羨ましくもなった。でも、そう思える自分がまだどこかに“希望”を持ってる証拠かもしれない。スーツに頼らず、素の自分でいられる時間を少しずつ増やしていきたいと思うようになった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓