手続きが終わってからキャンセルと言われた日

手続きが終わってからキャンセルと言われた日

朝から妙な予感がしていた

いつもより早く目が覚めたその日、なぜか胸のあたりがざわついていた。こういう日は、だいたい何かしら起きる。朝のニュースは淡々としていたし、天気も上々。だが、空気が重い。何かがうまくいかない気がしてならなかった。司法書士として働いていれば毎日が順調なんてありえないけれど、今日は特に嫌な予感がしていた。そういう時に限って、妙な連絡が来る。僕は机に山積みになった書類を見て、ため息をひとつついた。

書類の山に埋もれながら迎えた朝

朝イチの仕事は、すでに依頼を受けていた相続登記の資料整理。依頼人は60代の男性で、電話越しではしっかりしていたが、正直どこか話が曖昧だった。あの時から少し気になっていた。書類はすでに整っていて、あとは提出するだけという段階。それなのに、何かが引っかかっていた。事務員も「この人、大丈夫ですかね」と小声でつぶやいていたのを覚えている。気になる案件ほど、後で爆発する。それがこの仕事の常だ。

いつもと違う着信のタイミング

書類に目を通している最中、スマホが振動した。発信者の名前を見た瞬間、嫌な汗がにじんだ。まさにその依頼人だった。朝の9時過ぎという、通常なら何か忘れていた内容の確認か、軽い質問のタイミング。でも、なぜか今日は違った。心の中で「やめてくれ」と思いながら通話ボタンを押した。嫌な予感は、だいたい当たる。そしてそれは、見事に的中した。

番号を見ただけで胃が重くなる

「すみません、やっぱりキャンセルしたいんです」――電話の向こうでそう言われたとき、まるで頭の中が真っ白になった。もう手続きは済ませた。法務局にも書類を出した。ここまでやって「やっぱり」はないだろう、と心の中で叫びつつ、表面上は冷静に対応するしかなかった。司法書士の“演技力”が問われる瞬間だった。けれど胃のあたりがズンと重くなっているのが、自分でもはっきりわかった。

「やっぱりやめたいんですけど」の一言

あの一言で、午前中のスケジュールは完全に崩壊した。先方の気が変わった理由は「やっぱり自分でやれる気がしてきた」とのこと。冗談じゃない。そんな直感的な判断で、こちらがどれだけ動いてきたか。その影響を知ってほしいとも思ったけれど、言えなかった。言っても通じないのだ。こういう時、誰のために自分が頑張っているのか、わからなくなる。

もう提出してしまったんです

提出済みの書類を止めるには、再度手続きが必要だ。それもタダではできない。もちろんこちらとしては、正規の報酬を請求する権利がある。でも「キャンセルなら無料でしょ」という空気を出された瞬間、こちらの言葉は空気になる。法的な正しさと、感情的な圧との板挟み。気がつけば、自分の正義感よりも相手の空気を優先してしまっていた。

キャンセルできるかどうかよりも

結局、書類を戻す段取りを調整することになった。こちらに落ち度はない。それでも、なんとなく「すみません」と言ってしまう。司法書士の仕事は、正しさだけじゃ回らない。理不尽な要求を“なかったこと”にしながら、淡々と事務処理を進める。情熱とか使命感とか、そういう言葉はここには存在しない。淡々と、でも内心はモヤモヤしながら、今日も仕事を続ける。

“気軽さ”とのギャップがつらい

たぶん、相手に悪気はないのだ。でも、その“気軽さ”に毎回やられる。こちらは時間を使い、神経を使い、失敗があれば責任を負う。でも相手にとっては「ちょっとやっぱりやめようかな」程度の話。そのギャップに、精神がすり減る。この仕事をやっていると、人間の“重さ”と“軽さ”を毎日目の当たりにする。

事務員との無言のアイコンタクト

電話を切ったあと、ふと顔を上げると事務員と目が合った。彼女は何も言わなかったが、すべてを察していた。こういう日は、言葉を交わさなくても共有される空気がある。無言の中に、「またですか」「お疲れさまです」「ですよね」といった気持ちが詰まっていた。

声には出さないけど伝わる疲れ

彼女も僕と同じように、何度もこういう場面を経験してきた。ベテランではないが、感情の機微には敏感だ。疲れた顔を隠そうとせず、それでも手は止めずに動かしている。そんな姿に、少しだけ救われる自分がいた。「がんばってますね」と言いたくても言えず、ただ「すみませんね」と呟くのが精一杯だった。

「またこれか」という目つき

少し皮肉も混じった視線。それは僕への非難ではなく、状況へのあきらめだろう。僕だって、何度目だよ、と思っている。この仕事には「前に同じことがあったでしょ」というデジャブがつきまとう。それでも、書類の名前や日付は毎回違う。だから毎回、また最初から向き合わなければならない。効率化も最適化も、感情には通用しない。

そんな日でも書類は進めないといけない

電話に振り回されても、予定が崩れても、書類は減らない。むしろ、気持ちが乱れた分だけ、処理の精度が落ちやすくなる。ミスをすれば、また自分の責任になる。だからこそ、なおさら慎重にならざるを得ない。誰も気づかないミスを防ぐことが、司法書士の「誇り」だと信じている。でも本音を言えば、今日はもう全部投げ出したい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。