推し活すら気力が出ない日々に僕が感じたこと

推し活すら気力が出ない日々に僕が感じたこと

仕事に追われるだけの毎日で何かが削られていく

朝起きて、机に向かって、電話に出て、登記の準備をして、法務局へ行って…気づけば夕方。司法書士という仕事は「人の節目に関わる」なんて言われるけれど、当の自分の人生には節目らしきものなんてもう何年もない。日々のタスクを淡々とこなすだけで、自分の中の何かがじわじわと削れているのを感じる。忙しさの中で「やりがい」も「目標」もどこかに置き忘れてしまったようで、ただ無音の生活だけが続いていく。

朝からすでに疲れているという絶望

かつては「寝れば回復する」タイプだったと思う。元野球部の頃は、どれだけ練習で疲れても翌朝にはスパッと目覚めて「よっしゃ」と声を出せた。でも今は違う。目覚ましが鳴るたびに、「今日もまたか」とため息が漏れる。布団から出るだけで疲れる。エネルギーがすでに赤点灯しているような状態で、コーヒーも効かず、ただ身体を引きずるようにして事務所に行く。誰とも会話しないままパソコンの前に座る時間は、正直つらい。

眠ってもリセットされない心と体

眠ることが回復の手段でなくなって久しい。夜は夜で、業務のことや依頼者の顔が浮かんでしまい、深く眠れない。ようやく眠れたと思ったら、悪夢で起きることもある。翌朝のスケジュールに間違いがないか、何度もスマホを確認する癖がついてしまった。こんな状態では、たとえ布団に入っても心が休まらない。体力的には寝ているはずなのに、心がずっと緊張しているせいか、朝になっても疲労感がまったく抜けない。

「やりがい」はいつから義務になったのか

司法書士になったばかりの頃は、「自分にしかできない仕事だ」と思えていた。相続や会社設立で感謝の言葉をもらうたび、胸が温かくなった。でも、今は違う。「やりがい」と言えば聞こえはいいが、実態は「気を抜けない義務」になってしまっている。失敗が許されないプレッシャー、細かな確認作業、気を遣う依頼者対応…毎日をなんとかこなすだけで精一杯。「やりがい」が自分の心をすり減らす原因になっているなんて、皮肉な話だ。

推しの情報すら追えないという現実逃避

かつてはライブ配信やグッズ情報を追いかける時間が、何よりの楽しみだった。SNSでファン同士とやり取りすることも、疲れた自分をリセットする手段だった。でも今は、そういった「楽しみ」すら重荷に感じてしまう。推しが悪いわけではない。むしろ、推しの存在があってこそ、ここまで持ちこたえられた。でも、気力が尽きると「好き」すら感じなくなるものなのだと、初めて知った。

スマホを見る気力すら残らない夜

仕事を終えて帰宅した後、スマホを手に取るのが億劫になる。通知がたくさん来ていても開く気になれず、結局そのまま放置する日が続く。推しの新情報も、他人の盛り上がりも、今の自分にはまぶしすぎるのだ。画面の向こうではみんな笑っている。それを見るだけで、余計に孤独感が増してしまう。推し活は本来「元気をもらう」ものだったはずなのに、気づけばその元気を受け取る余裕すらなくなっていた。

「推し」という希望が支えだったはずなのに

何かを好きでいられるというのは、心のエネルギーがある証拠だと思う。僕もかつては、「今日も頑張れば推しの投稿が見られる」と励みにしていた。でも、今はその気力すら湧かない。応援したい気持ちはあるのに、画面を開くことが億劫になっている自分がいる。そんな自分にまた落ち込む。推しに何も罪はないのに、「ごめん、今は見られない」と心の中で謝る。まるで、好きでいることすら許されないような感覚になる。

TLに流れていくのは羨ましい誰かの幸せ

たまに覗いたSNSには、誰かの楽しい推し活報告が溢れている。ライブに行った、チェキが当たった、サインがもらえた…そんな報告を見るたびに、自分が取り残されたような気持ちになる。みんなが元気に走っている中で、自分だけ立ち止まっている。疲れてスマホを閉じるたび、「自分には何も残っていないな」と思ってしまう。幸せな投稿がつらく感じるのは、自分の中のエネルギーが足りない証拠なのだろう。

元野球部のくせに気合も入らない

「気合でどうにかなる」なんてのは幻想だ。元野球部だったからか、昔の自分は根性論を信じていた。でも、今は違う。気合ではどうにもならない日々がある。空元気を出しても、何も回復しないどころか、あとでどっと疲れがくる。かつての僕が見たら「もっと頑張れよ」と叱咤しそうだけれど、今の僕にはその「もっと」がもう出てこない。

あの頃の声出しは今や誰にも届かない

部活で声を張り上げていた頃、「声には力がある」と信じていた。試合前の円陣での叫びは、自分を奮い立たせる手段だった。でも今、事務所でひとり声を出すことはない。電話もチャットも淡々とこなす。誰かに気持ちを届けるような「声」は出せていない気がする。孤独な仕事という現実の中で、叫ぶ相手もいない。自分の言葉が誰にも響かない感覚は、思っている以上に堪える。

精神論では回復しない疲労と空虚

「休めば元気になる」と言う人がいるけれど、現実はそんなに単純じゃない。休みの日でも仕事の連絡が頭から離れず、結局ゆっくりできない。ぼーっとしていても罪悪感が湧いてくる。こういう「見えない疲労」は、根性では回復できないものだ。身体がだるく、心も重い。それでも「司法書士だからしっかりしなきゃ」と気を張るけれど、その仮面がどんどん重くなってきている。

ひとり事務所運営という名の孤独

事務員をひとり雇っているとはいえ、実質すべての責任は自分にある。登記のミス、依頼者対応、スケジュール管理…誰も肩代わりしてくれない。この重圧を誰かに相談することもできず、ひとりで抱えることが当たり前になっている。自営業の司法書士には「自由がある」と言う人もいるけれど、その自由の裏には常に孤独が潜んでいる。

話し相手がいないという地味なダメージ

日中、誰とも会話しない日もある。電話やメールは業務連絡ばかりで、雑談すらない。ふとした瞬間、「今日は誰とも笑ってないな」と気づくことがある。その事実が心にじわっと染みてくる。人と話すことはエネルギーの補充にもなるのだと、会話がない日々で実感した。声を出さないまま過ぎる一日は、思っている以上に心を蝕む。

事務員さんにも気を使ってしまう日々

せっかく雇った事務員さんにも、余計な負担をかけたくなくて何かと気を使ってしまう。本来ならこちらが堂々と指示すればいいのに、「これお願いしていいかな…」と遠慮がちになってしまう自分がいる。パワハラを恐れているわけでもなく、単純に「自分が我慢すればいい」と思ってしまう。だけどそれは、自分の首を絞めている行為でもあると最近気づき始めた。

それでも辞めなかった理由を振り返る

何度も「もう無理だ」と思ったことはある。でも結局、続けている。続けられている理由は何なのか、自分でもはっきりとは分からない。でも、ふとした瞬間に見える「ありがとう」の一言や、昔の依頼者からの年賀状が、心に小さな灯をともしてくれる。誰かに必要とされること、その事実だけが、自分をなんとか繋ぎとめているのかもしれない。

一通の手紙に救われた記憶

数年前、とある相続手続きのご依頼をいただいた方から、手書きの手紙をもらったことがある。「先生がいてくれて本当に助かりました」とだけ書かれた、短い手紙。それを読んだとき、不覚にも泣いてしまった。その手紙はいまも引き出しにしまってある。何かに迷ったときは、そっと取り出して読み返す。僕がやっていることにも意味はある。そう思える数少ない証拠なのだ。

誰かに必要とされることの重さと救い

疲れ果てた夜にも、孤独を噛み締める朝にも、「あの人がいたから助かった」と思ってくれる誰かがいるかもしれない。その可能性が、自分を支えてくれる。派手な活躍はなくても、誰かの人生の一部に関われている。その事実が、無力感や空虚感を少しだけ和らげてくれる。そしてまた、なんとか明日もやってみようと思えるのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。