忙しいねで始まり忙しいねで終わる関係に疲れた日

忙しいねで始まり忙しいねで終わる関係に疲れた日

朝の挨拶が忙しいねになった頃から何かがおかしい

朝、事務所のドアを開けると事務員が「おはようございます、今日も忙しいですね」と言う。それに対して私も「ほんとにね」と返す。それで会話が終わる。昔はもう少し他愛ない話もしていた気がするが、気づけば「忙しいね」がすべてをまとめてしまっている。この挨拶、便利ではあるが、なんだか心に残るものがない。忙しさは日々の現実だけれど、そこに感情を乗せる余裕もなくなっていることに、ふとした瞬間に気づいてしまうのだ。

本音を隠す魔法の言葉みたいに

「忙しいね」という言葉には、不思議な魔力がある。本当は「ちょっと聞いてくれよ、昨日こんなことがあってさ」と言いたい。でも言い始めた途端に、相手が「こっちも忙しくてさ」とかぶせてくる未来が見えるから、口をつぐんでしまう。その代わりに「忙しいね」と言えば波風は立たない。まるで感情の安全装置だ。けれど、その言葉が増えれば増えるほど、誰とも深く話さないまま一日が終わっていく。

天気の話よりも先に出る言葉

かつては「今日は寒いですね」なんて気候の話をしていた。それすらも最近はない。「おはようございます、忙しいですね」。それが定型文になっている。まるで天気のように、忙しさが前提になっている日常。だが、実際に忙しいかというと、単なる習慣のようになっているだけではないかと疑問にも思う。この「忙しさ」は、実態を伴っていない場合も多い。言葉だけが独り歩きしているのだ。

忙しさに共感することで距離を詰めた気になる

人間関係というのは不思議なもので、共通の話題があると親密になったように感じる。「忙しいね」と言い合うことで、「あなたも頑張ってる、私も頑張ってる」と無言のうちに認め合っているつもりになる。しかし、よく考えてみれば、それで本当に関係が深まっているわけではない。ただの疲れをなすり合っているだけかもしれない。それを絆と勘違いしてしまう自分が、少し情けない。

笑いもなくただ流れる言葉としての忙しいね

この言葉を交わしても、笑顔が生まれるわけでもない。ただ機械的に、会話の潤滑油として吐き出されていく。「ああ、今日もこれしか話してないな」と思う日もある。仕事の合間にポツリと事務員が言う「今日もバタバタですねぇ」に、私が反射的に「ほんとほんと」と返すだけの会話。そこに心があるかと問われたら、たぶんない。もはや呼吸と同じで、意識すらしていない。

事務員との会話も気づけばそればかり

彼女とはもう10年の付き合いになる。性格も分かっていて、仕事の手順も熟知してくれている。なのに、最近は世間話もなく、ただただ「忙しいね」と言って終わるやり取りばかり。先日は私が「最近、何か楽しいことあった?」と聞こうとして口を閉じた。きっと返事も「まあ、忙しくて…」で終わると分かっていたからだ。こうして本当の会話の芽は、どんどん摘まれていく。

沈黙が怖いだけかもしれない

結局のところ、「忙しいね」と言ってしまうのは、沈黙が怖いからなのかもしれない。無言の空気が流れると、お互いに気まずさを感じてしまう。だからこそ、とりあえず何かを言う。でも、その何かが「忙しいね」しか思いつかない日常が続くと、自分の語彙の貧しさにも気づいてしまう。司法書士という肩書はあっても、言葉が貧しい自分に、ふとした瞬間に寂しさが襲ってくる。

本当に忙しいのかという問いに答える気力もない

正直なところ、忙しいかと問われれば、忙しい。でも、その忙しさはただ案件が多いとか、時間が足りないという単純なものではない。心が休まらないことの連続だ。登記の書類は待ってくれないし、電話は容赦なく鳴る。でも一番の疲れは、「今日も無事に乗り切らなければ」というプレッシャーにある。そしてそれに応える気力が、少しずつ削られていく日々が、何よりもしんどいのだ。

仕事量と感情の重さは別の話

書類が5件の日も、15件の日も、終わったあとの疲れ方が同じ時がある。数字だけでは測れない感情の重みがそこにはある。例えば、相続登記で感情的になった依頼人に振り回された日は、たった1件でもどっと疲れる。一方、機械的にこなせる法人登記が10件あっても、あまり疲れを感じない日もある。結局、忙しさの本質は量ではなく、心の余白にあるのだと思う。

登記が1件終わっても疲れは減らない

最近、登記完了の報告をした後、「これで一息つけますね」と言われることがあるが、実際にはまったく休まらない。すぐに次の依頼、次の調査、次の確認が始まる。司法書士は「完了」の瞬間があっても、それが「休憩」を意味するわけではない。むしろ、その瞬間こそ次のスタートでもある。だからこそ、疲れが積もっていく。減るどころか、見えない場所に蓄積しているのだ。

忙しいという言葉の正体は孤独かもしれない

「忙しい」と言えば、誰もそれ以上深く聞いてこない。だからこそ、私たちはその言葉を選んでいるのかもしれない。本当は「しんどい」「話を聞いてほしい」「誰かに認めてほしい」と思っていても、それを素直に言うのは難しい。だから「忙しい」という言葉に包み込んでしまう。その結果、誰とも心の奥でつながれない。これは単なる孤独の言い換えではないだろうか。

元野球部の体力ももう限界か

20代の頃は、徹夜での申請準備もなんとかこなせた。根性と体力でどうにでもなると思っていた。でも、45歳になった今、肩は常に張っていて、目の奥が重い。元野球部という過去の肩書だけでは、もはやどうにもならない日が増えた。フォームは覚えていても球は投げられない。そんな虚しさと似た感覚を、日々の業務の中で感じている。

肩の痛みと心の痛みのダブルパンチ

最近、登記簿をめくる動作ですら肩に響く。事務作業の繰り返しが、物理的にも精神的にも痛みとして蓄積している。痛み止めの湿布を貼りながら、ふと思う。「これは仕事のせいか、年齢のせいか、はたまた孤独のせいか」。どれも正解のようで、どれも違う気がする。結局のところ、この痛みの正体は、人生そのものなのかもしれない。

昔の俺に今の俺を見せたらどう思うんだろう

高校時代の自分に、今の私を見せたらどう思うだろう。「夢を叶えて司法書士になったんだな」と言うかもしれない。でも、同時に「なんか疲れてるな」「楽しそうに見えないな」とも言われそうだ。それを想像するたびに、胸の奥が少しだけ痛くなる。でも、それでも前に進んでいることだけは、あの頃の自分に誇れる気がする。苦しいけれど、逃げずに立ち続けているから。

忙しいねで終わる会話に残る後味

夕方、事務員が帰り際に「今日もお疲れ様でした。忙しかったですね」と言う。「そうだね、今日もよく働いたね」と返す。そしてドアが閉まる音がして、事務所は静まり返る。たったそれだけのやり取り。でも、その余韻が妙に重たい。「今日も忙しいね」だけで終わった一日。誰とも心の深いところでつながらないまま、ただ仕事を終えたという実績だけが残る。それが続くと、自分が何のために働いているのか、わからなくなる時もある。

本当はもっと言いたいことがあったはず

「今日さ、法務局でこんなやり取りがあってさ」とか、「この案件、ちょっと感情移入しちゃったんだよね」とか、本当はもっと話したいことはある。でも、相手に負担をかけるのが怖くて、それを飲み込んでしまう。そのうちに、話すこと自体が面倒になる。そして「忙しいね」で会話を閉じる癖がついてしまう。誰かと本音を共有するには、時間も体力も勇気もいるのだ。

気づかないふりが癖になっている

誰かの沈黙や、表情の変化に気づいても、あえて気づかないふりをすることが増えた。なぜなら、気づいてしまうと向き合わなければいけないから。自分自身の弱さや、孤独、焦りに直面するのが怖いから。だから、すべてを「忙しい」で済ませるようになった。でも、それが本当に人との距離を縮めているのかと問われれば、やはり違う気がしてならない。

優しさと無関心の境目で揺れている

「忙しいね」で済ませるのは、相手への優しさなのかもしれない。でも、それは同時に、無関心でもある。どこかで線を引いて、自分を守っている。本当はもっと関わりたいし、関わられたい。でも、それを口にすると、心のバランスが崩れてしまいそうで怖い。優しさと無関心は紙一重。そのはざまで、私は今日も「忙しいね」と言っている。

誰かと繋がることを諦めたくないだけ

独身で、モテなくて、話し相手も限られているけれど、それでも私は誰かと繋がっていたいと思っている。「忙しいね」では終わらせたくないと思っている。ほんの少しの会話の中に、ほんの少しの温度があれば、それだけで救われる気がする。司法書士としてではなく、一人の人間として。そんなささやかな願いを胸に、明日もまた「忙しいね」と言ってしまうのかもしれない。

モテなくても信頼はされたい

恋愛には縁がなくても、せめて仕事では信頼されたい。書類の正確さ、期限の厳守、説明の丁寧さ。どんなに孤独でも、それを支えにして生きている。誰かの役に立てたと感じるときだけ、少しだけ自分を肯定できる。だから私は今日も、黙って書類に向かい続ける。誰かにとっての「安心」を届けるために。

仕事でしか会話が生まれない生活の現実

プライベートで誰かと話すことは、ほとんどない。LINEの通知も鳴らないし、食事は一人。だからこそ、仕事中の会話は貴重な接点だ。でもそれが「忙しいね」だけで終わってしまうのは、やっぱり寂しい。せめてそこに、少しの笑いやぬくもりを混ぜられるように。そんな日常を、もう一度目指したいと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。