独身ですと答えるたびに少し心がざわつく
たとえば不動産の決済で銀行の応接室にいるとき、ふとした雑談で「先生はご結婚は?」と聞かれることがある。「あ、独身です」と答えるたびに、何とも言えない空気が一瞬流れる。いや、誰も責めていないのはわかってる。ただ、そのあとの「へぇ…」という相槌がやけに胸に残る。ほんの一言が、その日の午後の気分を左右するようなこともある。独身であること自体は事実でしかない。でも、その事実がまるで「何かが欠けている証明」のように扱われる場面が、思ったより多い。言葉にしてはいけない寂しさが、確かにそこにある。
聞かれなくても感じる視線
婚姻歴の有無は、登記簿には書かれない。でも、それがまるで重要な属性であるかのように扱われる空気は、どこかにある。特に地域の会合などで「ご家族は?」と聞かれるとき、それが“会話のきっかけ”なのか、“確認”なのかが気になる。最近は「いません」と答えるより、軽く笑って「ひとりで気楽にやってます」とごまかすことも多い。それでも相手が急に気を遣ったように話題を変えると、こちらのほうが申し訳なくなる。独身って、そんなに気を遣わせる立場なんだろうか。
たまたま独身じゃなくて、ずっと独身です
「今は独身なんですね」と言われると、“たまたま”そうなのかと思われている気がして、妙に胸がざわつく。違う。私は、気づけばずっと独身だったのだ。選んだわけでも、選ばなかったわけでもない。ただ流れのなかで、仕事と向き合いながら、なんとなく一人でいることが当たり前になった。それをわざわざ言い訳のように語るのも億劫だし、堂々とするのも少し気恥ずかしい。人生の経緯をいちいち説明する気にもなれない。だから「独身です」とだけ言う。そのたびに、少しだけ傷つく。
誰も責めてないのに、なぜか責められている気がする
「早くいい人見つけなよ」と言われたとき、それは善意なのかもしれない。でも、言われた側は「あなたはまだ完成していない」と言われたような気持ちになる。まるで結婚していないことが、“足りてない”ことの象徴みたいに扱われる。この業界はとくに“安定”や“信用”を大切にするから、独身というだけで「あれ、なんで?」という視線を受けることもある。そういう目に慣れたふりをしても、やっぱりどこかで消耗している。怒るほどでもないし、笑い飛ばす元気もない。ちょうど、夏の冷房が少し効きすぎたときみたいに、じわっと体温を奪われていくような、そんな感覚。
独身と仕事の関係を語るときの複雑さ
独身であるからこそ仕事に没頭できるというのは、確かにある。でも、それが“誇り”ではなく“言い訳”になっていることに、ふと気づくときがある。休日出勤も、遅くまでの残業も、「誰かが待っているわけじゃないし」と思うと気が楽になる反面、「だからと言って全部やる必要があるのか?」と自問自答もする。自分で選んだ働き方に、納得しているようでどこか納得しきれていない。自由と孤独は、裏返しだとよく言われる。その意味が、身に沁みる。
自由なはずが、不自由な気持ち
誰にも縛られていない。これは確かに自由の証だ。けれど、自由であることが常に“気楽”とは限らない。たとえば、夜遅く事務所で書類を広げているとき、誰にも何も言われないのは楽でもあり、寂しくもある。夕飯も好きなタイミングで好きなものを食べられる。でも、それを毎日繰り返すと、「そろそろ誰かと食べたいな」と思う日もある。誰のせいでもない、ただの生活の連続。それが、少しずつ心を削っていく。
休日出勤を止める理由がないという空しさ
日曜に誰かと約束があれば、休みの理由になる。でも予定がなければ、結局「やれるときにやっとくか」と事務所に向かってしまう。クーラーの効いた誰もいないオフィスで、カタカタと打つキーボードの音だけが響く。効率的かもしれない。でも、これが本当に“自分のため”なのかはわからない。日曜日の昼下がりに、スーパーで家族連れの笑い声を聞きながら買い物しているときのあの孤独感。仕事は裏切らないと言い聞かせながら、やっぱりどこかで、人と比べてしまう。
それでも自分の事務所を守っているつもり
ひとり事務所を運営していると、「自分が倒れたら終わりだ」という緊張感が常につきまとう。それでも、ここまで続けてこれたのは、自分が決めた責任を放棄しなかったからだと思う。結婚していなくても、家庭がなくても、自分なりの“守るべき場所”はある。事務員さんの給料、依頼者の信頼、地域とのつながり。全部まとめて「守ってる」と言えるかはわからないけれど、少なくとも逃げずにやってきた。その事実だけが、いまの自分の支えになっている。