朝が来るのがただただ怖いと思うようになった理由
朝のアラームが鳴るたびに、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚になることが増えた。若い頃は、目が覚めれば体が勝手に動いていたし、「今日は何をしよう」と自然にワクワクすることもあった。でも今は違う。布団の中で目を開けた瞬間、重い現実がのしかかってくる。登記の期限、裁判書類のチェック、相談者への折り返し…。ひとつひとつは小さなことかもしれないが、積み重なるとまるで岩のように重たい。朝が来るのが怖いと感じるようになったのは、日々の小さな義務が心を少しずつ蝕んできた結果なのかもしれない。
眠りに逃げたくなるほどのプレッシャー
目覚ましが鳴っても、スヌーズを何度も押してしまう朝がある。そんな時は決まって前日、寝る直前まで仕事のことを考えていた。依頼者の要望が多くて応えきれなかった日や、期限ギリギリの登記申請を抱えていた夜。寝つきは悪いくせに、夢の中でも仕事の続きをしていることが多い。「これはミスじゃないか」「あの人からクレームが来るかも」そんな妄想がループする。夢の中の自分は、終わらない仕事に追われて走っている。朝になるとぐったりして、現実が夢以上に重たくのしかかる。それでも時計は進む。逃げ出したくなるほどの朝が、今日もまたやってくる。
仕事に追われる夢を見て目覚める朝
「申請が通らなかった」「登記が却下された」そんな夢を何度も見たことがある。目が覚めてほっとするが、その安心は長くは続かない。現実でもいつ何が起きてもおかしくないのだ。しかも、夢の中の登記ミスやクライアントとのトラブルは、妙にリアルで、まるで本当に経験したかのような疲労を残してくる。夢と現実の境界線があいまいになってしまう日もある。起きた瞬間に「今は夢だった」と気づくまでの数秒間、心拍数は跳ね上がり、もう一度寝直したくなる。でも現実は待ってくれない。夢の中でさえ休まらないこの心は、いつからこうなってしまったのだろう。
あの電話がまた鳴るかもしれないという予感
朝が怖い理由のひとつに、「またあの番号から電話があるかも」という予感がある。クレームの常習者、期限ギリギリでしか動かない依頼者、理不尽な要求を繰り返す不動産業者…。携帯が震えるたびに、胸がズキリと痛む。普通の人にとっては、ただの一本の電話。けれどこちらにとっては、積み重ねた仕事が一瞬で崩れるスイッチになりうる。だから朝のスマホ確認が怖い。通知がゼロだと安堵し、着信履歴に見覚えのある名前を見つけた瞬間に一気に疲れる。この恐怖は、職業病なのか、それともただの弱さなのか。
司法書士という職業の見えにくいストレス
外から見ると、司法書士は安定していて、堅実な仕事に見えるかもしれない。「士業だからしっかりしてるよね」と言われるたび、なんとも言えない気分になる。確かに、収入はある程度読めるし、独立すれば自由もある。でも、その裏には、他人の人生の節目に立ち会い続けるプレッシャーがある。登記に失敗すれば、その人の大事な財産に関わるし、遺産分割の争いでは、家族の感情の渦中に立たされることもある。黙って耐えることが「プロ」とされるこの業界で、本音を吐き出す場所なんてないのだ。
「士業」の看板が重く感じる瞬間
「先生」と呼ばれることが、むしろ自分の首を絞めることがある。とくに地元では、ちょっとした買い物や散歩中にも相談を持ちかけられることがある。世間話の延長のようでありながら、結局は仕事の話になる。もちろん信頼されている証だと分かってはいるが、休日でも気が抜けない。断ると角が立つし、引き受けても無償にはしづらい。看板を掲げている以上、常に「士業らしく」あれという目に見えない圧がつきまとう。自分の存在が、「ただの人間」でいられなくなる時の息苦しさは、予想以上だった。
相談されても、全部救えない現実
相続争いや不動産トラブルを抱えた相談者の話を聞いていると、「どうしてこんなにこじれてしまったんだろう」と思うことが多い。冷静に話をまとめようとしても、感情が爆発する依頼者もいる。なかには、明らかに法的にはどうしようもない案件もある。けれど「なんとかしてください」とすがられると、どうにかしたくなるのが人情だ。だが現実には、できることとできないことがある。その線引きが、いつも自分を苦しめる。断れば冷たいと思われ、受ければ自分の首が締まる。このジレンマが日々の疲れを倍増させている。
責任だけが積もっていく日常
「大丈夫です、お任せください」——この言葉を、何度口にしただろうか。自分でも思う。こんなに簡単に引き受けて、本当に良かったのか?その場では安心させることが正解に見える。でも後からくるプレッシャーは尋常ではない。ひとつの登記、一通の書類、一度の助言が、その人の人生に影響することだってある。なのに、それに見合うだけの理解や報酬があるとは限らない。ただただ、「責任」だけが、自分の背中に積み上がっていく。気づいたら、肩こりも治らなくなっていた。
誰にも言えない孤独と向き合う時間
独立してもう十数年。事務員さんはいるけれど、所長という立場上、弱音も簡単には吐けない。「しっかりしなきゃ」「頼られているんだから」と言い聞かせながらも、心の中は空っぽに近い時がある。相談されても、自分が相談できる相手はなかなかいない。同業の友人は遠方にいて、飲みに行くこともできない。話せば愚痴になりそうで、余計に距離を置いてしまう。そんな中、孤独という感情がじわじわと染み込んでくる。気づいた時には、それが日常になってしまっていた。
事務所で一人きりの昼食がつらい
お昼になると、事務員さんは外出することが多い。自分はというと、弁当をつつきながら、静まり返った事務所の中でパソコンの画面とにらめっこ。テレビもラジオもつけないから、咀嚼音がやけに響く。かつての野球部時代は、昼休みといえばにぎやかで、仲間と笑い合っていた。あの頃の賑わいはどこへ行ってしまったのか。仕事に集中できる環境といえばそれまでだけど、人間らしい温度が欠けている気がして、どうにも寂しい気持ちになる。
帰っても誰もいない部屋に戻るだけ
仕事を終えて帰宅すると、玄関には真っ暗な空間が待っている。テレビの音もなければ、夕食の香りもしない。ただの「無音」。それが当たり前になってしまった。たまに実家の母から「ご飯ちゃんと食べてるの?」と電話が来ると、少しだけ心が和むけど、それすらも申し訳なく感じてしまう。もう少し若いうちに、誰かと一緒に住む努力をしていれば違ったのかもしれない。そう思っても、時間は戻らない。今ある現実を受け入れるしかない。
元野球部の仲間たちとは今や別世界
高校時代の野球部仲間と久しぶりに集まった時、話題はほとんどが子どもの話と家族のことだった。仕事の愚痴も、誰かに共感されるような内容ではなかった。「お前は士業だから安定してるよな」と言われたけれど、内心は違った。安定しているようで、精神的には常に綱渡り状態だ。でもそれを言っても、理解されないと思って、笑ってごまかした。「次は誰の家に集まる?」という話の輪の中に、自分の家の名前は出なかった。当たり前だ。誰もいない部屋に呼べるはずもない。
それでも朝に起きる理由を探して
そんな日々でも、なぜか毎朝目は覚める。不思議なことに、「今日はもう無理だ」と思った日でも、何とか机に向かっている。自分が望んだ道だと自分に言い聞かせながら。完全な正解ではなくても、少なくとも誰かの役に立っていることがある。その「誰か」がいる限り、朝に立ち向かう理由はゼロではない。怖い朝を迎えても、それでも歩き出すしかないのだ。
依頼者の「ありがとう」がかすかな光
全部が全部つらいだけではない。ときおり、依頼者から「助かりました」「本当にありがとうございました」と言われることがある。その一言で、数日分の疲れが一瞬だけ軽くなる。たとえ完璧じゃなくても、自分のやったことが誰かの安心につながっている。その事実は、どんな自己否定よりも強い。だからまた、朝に向き合えるのだと思う。ほんの少しでも、誰かの役に立てているなら、今日もやる意味はある。
事務員さんの存在に救われることも
普段は淡々と仕事をしている事務員さんだけど、ふとした時に「先生、大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。そのひと言に、どれだけ救われたことか。独立してからずっと一人でやってきたつもりだったけど、実は支えられていたのだと気づくことがある。人は一人では生きられないし、弱さを出すことは恥ではない。もっと素直になれたら、朝も少しだけ楽になるかもしれない。
過去の自分に恥じないように今日を生きる
高校時代、朝練に向けて眠い目をこすりながら自転車をこいでいた頃の自分を思い出す。毎日がきつかったけれど、あの時の自分には「絶対に負けないぞ」という気持ちがあった。今も、あの気持ちはどこかに残っている気がする。たとえ朝が怖くても、布団から出るのがつらくても、自分が選んだこの道に、過去の自分が誇れるように今日を生きたい。そう思える瞬間がある限り、また明日も、なんとか起きようと思う。