子どもになにしてるのと聞かれて言葉が出なかった朝

子どもになにしてるのと聞かれて言葉が出なかった朝

子どもに仕事を聞かれて詰まるなんて思ってもいなかった

ある朝、姪っ子がふいにこう聞いてきた。「ねえ、なにしてるの?お仕事は?」。その瞬間、頭が真っ白になった。司法書士って説明が難しい。しかも、子どもに分かるように言うのはもっと難しい。登記とか成年後見とか言っても通じないし、じゃあ何をしてる人?ってなると、自分でもうまく説明できなかった。そのとき、自分の仕事って、こんなに言葉にしづらいものだったのかと初めて気づいた。誇りを持っていたはずなのに、言葉が出てこない自分に情けなさすら感じた。

自分の仕事を一言で説明するのがこんなに難しいとは

会社員なら「サラリーマン」、教師なら「先生」、でも司法書士ってどう言えばいいんだろう。「おじさんはね、みんなの土地や建物の手続きをしてるんだよ」なんて言ってみたけれど、いまいち反応は微妙だった。じゃあ「お年寄りのお手伝いもしてるよ」って言ってみても、やっぱりピンときてない顔。こっちが焦れば焦るほど説明が空回りする。結局、「まあ、地味だけど大事な仕事なんだよ」と苦し紛れに締めくくったけど、何か負けた気がしてしまった。

司法書士ってなんなのと自問してしまう日々

そもそも、自分でも明確に「司法書士とは」と言い切れる言葉を持っていないのかもしれない。毎日登記の申請書を作って、書類とにらめっこして、依頼人の話を聞いて、法務局に行って…。それは日常であり、当たり前で、言葉にする必要もなかった。でも改めて「自分の仕事とは?」と考えたとき、そこに確かな自信があるかと問われれば、黙ってしまう自分がいた。そんな自分に気づくのが、少し苦しかった。

肩書きで語れない日常のリアルと葛藤

司法書士という肩書きは、たしかに専門職で、人からは「すごいね」と言われることもある。でも現実は、電話に追われ、登記が通らず、依頼人にキツい言葉を投げられることもある。誰にも評価されないまま一日が終わることもざらで、肩書きだけでは語れない現場がそこにはある。だからこそ、「何の仕事してるの?」と聞かれたとき、言葉が詰まるのかもしれない。ただ肩書きを言うだけじゃ、伝わらない想いがあるから。

胸を張れる仕事なのに心がついてこない

司法書士の仕事は、たしかに社会に必要とされている。登記や相続、後見といった分野は、人の人生に深く関わる。だからこそ、自分もこの仕事に誇りを持ちたかった。だけど、日々の忙しさや、評価されにくい実務の積み重ねの中で、どこか心が置いてけぼりになってしまう感覚がある。たまに「ありがとう」と言われても、なぜかその言葉がうまく染み込まない自分がいて、そんな自分を嫌いになりそうなときもある。

誇りと疲労のはざまで揺れる気持ち

朝から晩まで、ひたすら書類と格闘し、移動中も電話が鳴りやまず、ふと鏡を見れば疲れた顔。「自分は何のためにやってるんだろう?」とぼんやり考える瞬間がある。依頼人のため、社会のため…そう答えたい。でも現実は、売上やスケジュールに追われて、自分の感情すら後回し。元野球部で体力には自信があったけど、最近はそのバッテリーも切れかけてる気がしてる。

人の人生に関わる重さとその孤独

相続や成年後見の案件では、依頼人の人生そのものに関わることが多い。信頼してもらえるのはありがたい反面、失敗が許されないというプレッシャーが常にある。そして、その責任を誰かと分かち合えることは少ない。相談できる仲間もいないし、事務員にすべてを話すわけにもいかない。気づけば、ひとりで重い荷物を抱えている。正直、何度も「もう辞めたい」と思った。でも、辞めた先に何があるかも分からない。だから続けるしかない。

感謝よりも先にくるクレームに慣れてしまった自分

昔は、「ありがとう」と言われることが何より嬉しかった。ところが最近は、何かミスがないか、どこで怒られるか、そんなことばかり気にしてしまう。電話が鳴るたび、胃がキリキリする。クレームに対する耐性がついたのか、ただ感情を麻痺させているだけなのか、よくわからない。ただ、「自分は誰かのために役立っている」という実感より、「怒られないように立ち回っている」だけの日々に、ふと虚しさを感じることがある。

なぜこんなに仕事の説明が難しくなったのか

昔は、「士業」という言葉に少しだけ誇らしさを感じていた。でも今では、それがむしろ距離を生んでいる気がする。言葉の響きが堅苦しくて、実態が伝わりにくい。「登記とか、相続とか、成年後見とかやってます」と言っても、それがどれだけ大事で、どれだけ人の人生に関わっているのかを伝えるのは本当に難しい。だからこそ、シンプルに自分の言葉で語れるようになりたいと思うようになった。

士業の言葉が遠ざけてしまうもの

「登記」「供託」「後見」…どれも司法書士にとっては当たり前の言葉。でも、それを外に向かって話すと、途端に壁を感じてしまう。難しい言葉で説明してしまって、結果的に相手に伝わらない。だったら、もっと噛み砕いて、身近な例で話せばいいのに、それがなかなかできない。士業としてのプライドなのか、単なる照れなのか。わかりやすさより、正確さを優先してしまう悪い癖が染みついているのかもしれない。

家族にも伝わらない専門職の現実

母親には何度も「仕事のことよく分からないけど、体には気をつけて」と言われた。たしかに、仕事の内容を家族にちゃんと話したことはなかったかもしれない。「難しそうね」「なんか大変そうね」それだけで終わってしまう会話に、どこか寂しさを感じる。でも、誰かに伝えようとしなかったのは、自分の方だったのかもしれない。話しても分からないだろう、そんな風に決めつけて、説明する努力をしてこなかった。

元野球部だった自分がなぜここにいるのかと考えるとき

高校時代は甲子園を目指して毎日グラウンドにいた。バットを握って汗を流していた自分が、今や机に向かって登記簿と格闘している。不思議だなと、ふと笑ってしまうときがある。だけど、野球も司法書士も「積み重ねること」が求められる点では同じだと思う。地味で、報われないことも多いけど、努力の先に誰かの安心や信頼がある。そう信じたいから、今日もまた机に向かっているのかもしれない。

それでも続けているのは誰かのためになっているという実感

こんなに悩みながら、愚痴をこぼしながら、それでも辞めずにいるのは、「ありがとう」の一言に救われる瞬間があるからかもしれない。日常の中にふっと差し込む光のような、あの一言。それがある限り、自分はこの仕事を続けていける気がする。子どもに仕事を聞かれて詰まった朝、改めて「なんで自分は司法書士なんだろう」と考えるきっかけをもらった気がした。そして、今度聞かれたら、もう少しうまく答えられる気がしている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。