日中は目の前の仕事で頭がいっぱい
朝から晩まで、目の前に積み上がった書類や依頼案件をこなすだけで一日が終わっていく。司法書士という職業は、一つのミスが誰かの人生を狂わせかねない。だからこそ、集中力と緊張感が求められる。気づけば昼食も流し込み、夕方には肩と頭がパンパン。日々の業務に没頭することで、感情の余白などなくなってしまう。そして気づくと、自分が何を考えていたのか、何を感じていたのかもわからなくなっている。
相談者に寄り添ううちに自分を見失う
相談者から聞く話には、どうしても感情が引っ張られる。離婚、相続、借金問題…人の人生の節目に立ち会う仕事だ。こちらは感情を交えず、法律に基づいて淡々と処理すべきなのだが、どこかで「この人、大丈夫かな」と気になってしまう。寄り添いすぎても仕事にならないし、突き放しても心が痛む。結局、自分の中にその葛藤が蓄積して、ふとした瞬間に疲弊感として襲ってくるのだ。
「ありがとう」の言葉が染みるけれど
ときどき「先生、助かりました。本当にありがとう」と言われることがある。そういうときは少しだけ、報われたような気持ちになる。でも、心のどこかでは「これは仕事だから」と自分に言い聞かせている自分もいる。感情に流されるときりがないのは分かっているけど、その「ありがとう」に救われているのもまた事実だ。
書類の山に感情を閉じ込める日々
積み重なった登記書類や契約書の束は、ある意味で自分の感情を閉じ込めている檻のようだ。一件処理するたびに心の引き出しを閉じていく感覚。それは、自分を守る手段でもある。でも、いつの間にかその引き出しの鍵の場所も忘れてしまっている。
仕事をこなすことで自分の価値を測っている
この年齢になると、「仕事=自分の存在価値」みたいな感覚が染みついてしまっている。どれだけ依頼をこなしたか、どれだけクレームがなかったか、そんなことが一日の評価基準になる。誰かに褒められるわけでもないし、自己満足の世界。けれど、それ以外に何を頼りに自分を保てばいいのか、わからなくなってしまうときがある。
誰かの役に立てたと思いたい
結局は、「誰かの役に立っている」と思えることが唯一の救いなのかもしれない。この書類を提出したことで相続がスムーズに進んだ、登記のおかげで安心して引っ越しできた…そんな想像がなければ、やっていけない。報酬よりも、そうした“裏の感謝”が、支えになっている。
元野球部だった頃の「結果が全て」との共通点
学生時代、野球部だった頃を思い出す。あの頃も、どれだけ努力しても結果が出なければ意味がなかった。練習試合で打てなかったら控えに回される。今の仕事も同じ。どれだけ準備しても、結果がミスなら終わり。結局、自分は“結果”にしか評価されない世界をずっと歩いている気がする。
夜になると止まる手と心のざわつき
夕方までは気が張っているが、夜になると急に心が緩む。そして、その緩みの隙間から、虚しさがひょっこり顔を出す。誰かと会話した記憶も薄れ、テレビも音楽も入ってこない。静かな部屋にポツンと座る自分。スマホをいじっていても、画面の明かりが虚しさを照らすだけで、満たされることはない。
一人きりの部屋で思考が暴れ出す
夜になると、「これでいいのか?」という疑問が湧いてくる。朝は“仕事だから”と納得できていたことが、夜には“なんのために?”と変わってくる。一人きりの部屋では、その思考に歯止めがきかない。寝ようとしても目が冴えて、布団の中で悶々とする時間が続く。そんな夜が何度あっただろうか。
今日は誰とも目を合わせていない
気づけば、今日は誰とも目を合わせていない。依頼者とはメールか電話、事務員とは業務連絡のみ。コンビニの店員も無言だった。そんな日が続くと、人と話す感覚が鈍くなる。人間関係って、こんなに希薄になれるものなんだと、改めて実感する。
「また一人か」と笑ってみるけど
家に帰って、テレビのバラエティ番組でカップルがじゃれ合っているのを見ると、つい「また一人か」と自嘲気味に笑ってしまう。でも、それは笑っているフリをしているだけで、心の中では小さなため息をついている自分がいる。笑えるようで笑えていないのだ。
スマホを眺めても心が埋まらない
SNSを開いても、誰かの楽しそうな投稿が並ぶだけ。「いいね」を押すことすら億劫になって、気づけば画面を閉じている。スマホという文明の利器が、こんなにも無力に感じる瞬間はない。むしろ、それを見て余計に孤独を感じる始末。
通知は仕事のリマインダーばかり
スマホに届く通知は、顧客からの連絡か、スケジュールのリマインダー。プライベートのやり取りなんて、ほとんどない。人との関係が“仕事”を通じてしか成り立っていないことに気づくと、また虚しさが押し寄せてくる。
LINEの「未読ゼロ」が胸に刺さる
LINEの未読がゼロ。普通なら「気楽でいい」と思えるかもしれない。でも、「誰からも何の連絡もない」という事実が、静かに胸に刺さる。「あ、今日も誰にも必要とされていないんだな」と感じる夜が、一番こたえる。
それでも明日また目覚めて仕事へ向かう理由
こんな夜を何度繰り返しても、朝になればまた事務所へ向かっている。誰かのために仕事をしている。それが、自分のリズムになっているのかもしれない。虚しさは消えないけど、それでもやめない理由がある。それは、きっと「誰かの人生に関われている」という、わずかな実感があるから。
誰かの人生の一部を守っている自覚
登記や相続、遺言といった業務は、目立たないけれど確かに人の人生の節目に寄り添っている。自分がいなければ、うまく進まなかったかもしれないこと。そう思えば、自分の仕事にも意味があると思える。そうでも思わなきゃ、やっていけない。
登記の向こうにある暮らし
登記は単なる書類作成ではない。その先に「家を買った人の新生活」や、「親族が亡くなった家族の手続き」がある。直接感謝されることは少ないが、その人の暮らしを支えている感覚がある。それを見落とさずにいたい。
法的な安心を届けるという意味
書類を整えることで、クライアントに「安心」を届ける。それがこの仕事の意義だと思っている。誰かが不安を抱えたとき、自分がその解決の一助になれる。そういう役割に価値があると思いたい。
虚しさは「ちゃんと生きている」証かもしれない
ふと、「虚しい」と思えるのは、逆に言えば「生きている実感」があるということかもしれない。何も感じなくなったら終わり。感じている間は、まだ希望がある。そんなふうに、自分をなだめる夜もある。
夜の孤独を見つめることで得られるもの
夜の孤独はつらいけれど、同時に自分を見つめ直す時間でもある。普段は気づかない心の声が聞こえる。無理に消そうとせず、ただ受け止めてみる。そんな夜が、少しだけ自分を強くする。
同じような気持ちの誰かに届いてほしい
この文章を読んで、「自分も同じだ」と思ってくれる人がいたら、それだけで救われる気がする。孤独は誰にでもある。でも、それを言葉にすることで、誰かとつながることもできる。そんな思いを込めて、今日もまたこの文章を書いている。