誕生日に気づかれない日常
司法書士としての毎日は、正確さと効率に追われるような日々だ。地方の事務所で一人の事務員と共に淡々と書類をさばいていく。そんな中で、自分の誕生日なんていう個人的なイベントは、仕事の波にあっさりと飲まれてしまう。祝ってほしいとまでは言わない。ただ、誰かがふと「今日誕生日ですよね?」と声をかけてくれたら、それだけで救われるような気がする。けれど、今年もその一言はなかった。
机の上にあるのは書類だけ
朝、いつものように事務所に入ると、机の上には山積みの登記書類と朱肉と、いつもの静寂があった。誕生日だと気づいていたのは、自分だけ。スマホには何件かのSNS通知。けれど、リアルな場所での「おめでとう」はゼロ。誰かと目が合って「今日、誕生日なんですよ」なんて軽口が言えたらいいのだが、そんな関係性も築けていない。独身で、恋人もおらず、友達も少ない45歳の男にとって、ハンコよりも欲しかったのは、たった一言だった。
「今日、誕生日なんです」とは言えない
自分の誕生日を自分で口にするのは、どこかみじめだ。学生のころならまだしも、大人になって「今日は誕生日でして」なんて言ってみたところで、どう返ってくるかも分からない。「あ、そうなんですね」と返されるのが関の山だ。だから黙っていた。けれど、黙っている限り、誰にも気づかれない。この無限ループの中で、歳だけが増えていく。書類は正確に処理されても、自分の存在は誰にも記録されない。そんな感覚に胸が締めつけられる。
事務員さんとの距離感が生む静けさ
事務員の彼女は、仕事熱心でミスも少なく助かっている。けれど、彼女との間には一定の距離がある。互いに仕事をこなすだけの関係で、プライベートの話はほとんどしない。話すきっかけがないのか、話したくないのか、もうわからなくなってきている。ふとした瞬間、「この人は、僕のことをどう見ているんだろう」と思うことがあるけれど、それを問いかける勇気もない。気づかれないまま、今日も彼女は静かに書類を綴じている。
ハンコを忘れて取りに帰った日のこと
その日も仕事に追われていた。急ぎの登記があり、役所へ向かう直前、ふとポケットを探ると印鑑を忘れていた。家まで戻るには時間もかかる。イライラしながらも車を飛ばし、玄関を開けた瞬間、カレンダーの「○月○日」が目に飛び込んできた。そうだ、今日は誕生日だった。思い出したというより、突きつけられた。印鑑よりも、今自分が本当に欲しいものに気づかされた瞬間だった。
登記書類より大切なものがあると気づいた瞬間
家のリビングは静まり返っていた。誕生日の飾りも、ケーキも、誰かの気配もない。そりゃそうだ、一人暮らしだから。でも、心のどこかで誰かが何かを用意してくれてるんじゃないか、そんな淡い期待がまだ残っていた自分に気づいて、苦笑いした。印鑑を鞄に入れて再び車に乗る。ふと、登記の期限も気になるが、それよりも「誰かに祝ってもらいたい」という感情のほうが、ずっと重かった。
手続きは進むけど心は止まったまま
役所では淡々と業務が進み、書類は無事受理された。自分の仕事はきちんと果たした。でも、心はどこか取り残されていた。誰かに認められたい。褒められたい。祝われたい。そんな気持ちを押し殺しながら、笑顔で「では、よろしくお願いします」と頭を下げる。形式的な言葉だけが行き交い、自分の存在はまた透明になっていく。自分が生きていることを実感できるのは、結局いつなんだろうか。
誕生日にハンコを取りに戻る男の背中
助手席の印鑑ケースが、妙に重たく感じた。あれがあれば書類は完成する。けれど、それで埋まらないものがある。生まれた日すら誰にも知られず、ただの書類処理者として今日も一日を終える。そんな人生を、望んでいたんだっけ?と問いかける。ハンコ一つで人生が前に進むなら、それは便利かもしれない。でも、気持ちだけはハンコじゃ押せない。そんな当たり前のことを、この年になってようやく理解し始めている。
なぜこんなにも「おめでとう」が欲しかったのか
人に祝ってもらうのは、自己満足だという人もいる。でも、誰かに「あなたが生まれた日を覚えている」と伝えてもらえるのは、想像以上に力になる。忙しさや孤独に埋もれていく中で、自分の存在を肯定してもらえるその一言が、明日もがんばろうと思わせてくれる。祝ってもらえないことは、忘れられていることの裏返しのようで、それが何よりつらかった。
独身男性司法書士のささやかな願い
別にパーティーがしたいわけじゃない。サプライズケーキも、プレゼントもいらない。ただ「おめでとう」と言ってほしい。それだけでよかった。そんな些細な望みすら口に出せず、淡々と仕事をこなす。元野球部だった頃のように、大声で「今日オレ誕生日なんだよ!」と叫べたら、どんなに楽だったか。でも、今の自分にはそんな勇気も元気も残っていない。
モテないからこそ欲しい人とのつながり
恋人もいない。女性にもモテない。友達も疎遠になった。そんな生活が当たり前になっている今、「誰かとつながっていたい」という気持ちが強くなる。誕生日は、その気持ちが最も強く浮かび上がる日だ。仕事は大事だけど、誰かと一緒に笑う時間もまた、大事だったはず。けれど、書類の山に埋もれていくうちに、そんな大切な感情をどこかに置き忘れてしまったようだ。
元野球部の孤独なバースデー
高校時代、誕生日には部室でバカ騒ぎをしていた。仲間が冗談を言い合って、ケーキの代わりにプロテインが出てきたりして、それでも楽しかった。あの頃は、ただ一緒にいて笑ってくれる人がいた。それだけで十分だった。今は、同じような時間を求めること自体が、場違いなのかもしれない。それでも、ふとした瞬間に、あの笑い声を思い出す。あの時間を、もう一度感じたいと願ってしまう。
それでも明日はまた印鑑を押す
今日もまた、書類が届く。誰かのための手続き。誰かの人生の節目に関わる仕事。その重要性は理解しているし、誇りもある。でも、だからこそ、自分の節目も誰かに覚えていてほしいと思ってしまうのだろう。誕生日を祝ってくれる人がいなくても、明日もまた印鑑を押し続ける。それが、この仕事の宿命なのかもしれない。
気づかれないままでも続ける意味
感情が報われなくても、やるべきことはやらねばならない。誰にも祝われなくても、登記は待ってくれない。けれど、それでもどこかで誰かの役に立っていると信じたい。誰かの「ありがとう」が届かなくても、目の前の一件一件を丁寧にこなしていく。それが、自分の存在意義であると、信じるしかない。
祝われなくても、誰かの役に立つこと
今日は誰にも気づかれなかったけれど、誰かの手続きは無事に終わった。そのこと自体が、きっと意味を持つのだと思う。祝われる人生じゃなくても、支える側としての人生がある。裏方としての役割を全うすることで、誰かが安心して新しい一歩を踏み出せる。それだけでも、自分がここにいる意味になる。
そしてまた誰かの書類に静かにハンコを押す
明日もまた、机に向かい、静かに書類に目を通す。そして、印鑑を押す。そこに感情はないかもしれない。でも、心のどこかで「誰かに祝ってもらいたい」という想いは、きっと消えない。それでも、自分の手が誰かの明日を支えているなら、この孤独にも少しは価値があると信じていたい。