笑ってごまかす日々が習慣になっていた
気づけば「大丈夫です」と笑ってごまかすのが当たり前になっていた。特にトラブルがあったわけでもないのに、心の中では何かがずっと重くのしかかっている。そんな時でも「どうかしました?」と聞かれると「いや、全然!」と無理して笑う。そのほうが相手も気を遣わなくて済むし、こっちも変に深堀りされずに済む。だけど、続ければ続けるほど、自分の本音がどこかへ行ってしまうような気がしていた。
しんどいのに「大丈夫」って言ってしまう理由
昔から「泣くな」「弱音を吐くな」と言われて育ったからか、「つらい」と口に出すことに抵抗がある。特に司法書士という仕事柄、「頼れる存在」として見られがちで、自分が弱ってるなんて思われたくない。そう思えば思うほど、しんどいときほど無理して笑ってしまう。あの笑顔は、他人のためというより、自分を守るための鎧だったのかもしれない。だけどその鎧、重すぎて最近肩が上がらない。
心配をかけたくないという優しさが自分を苦しめる
誰かに「心配かけたくない」と思うのは、きっと優しさだ。だけど、それが過剰になると自分をどんどん追い込んでしまう。例えば事務員が「今日は先生顔色悪いですね」と言ってきたときも、「全然平気だよ」と笑った。でも内心は、昨夜ほとんど眠れてなくて、食欲もなかった。そんなときに「実はちょっとしんどくてさ」と言えれば、気持ちは少し軽くなるのかもしれない。でもそれができない自分が、やっぱり不器用なんだと思う。
相談しない癖はどこから来たのか
人に相談するという行為が苦手だ。そもそも「相談する」という文化が家庭にも部活にもなかった。元野球部の頃は、怪我しても監督に言えなかったし、熱があっても黙って練習に出た。誰かに「つらい」と言っても、「それくらいで?」と軽く扱われるのが怖かった。だから今も、「相談して軽くあしらわれたらどうしよう」という恐怖が先にくる。結局、自分で抱え込むほうが“安全”に思えてしまうのだ。
昔から「弱音は甘え」と言われてきた
「弱音=甘え」だと刷り込まれて生きてきた。部活でもそうだし、司法書士の世界でもどこかストイックさが求められる。周囲からは「責任感がある」と言われることもあるけど、実際はただ怖くて弱音が吐けないだけだ。実は先月、深夜に過呼吸のような症状が出て、救急車を呼ぼうか本気で悩んだ。でも結局、誰にも言えずにそのまま朝を迎えた。笑ってごまかす裏には、そんな不器用な生き方が隠れている。
司法書士という仕事は、想像以上に孤独だった
世間からは「安定してそう」「頼りがいがありそう」と思われる司法書士だけど、実際のところはかなり孤独だ。地方で一人事務所を切り盛りしていると、誰とも会話せずに1日が終わることもある。唯一の事務員さんにさえ、弱いところを見せられない時もある。誰かに「調子どう?」と聞かれても、「まあまあですね」と答えるのが精一杯。そのうち「まあまあ」が口癖になって、本音はどこへやら。
事務員はいるけど、結局は全部自分
事務員が一人いるだけでだいぶ救われているけれど、結局は全部自分で判断しなければならない。相談相手がいないというのは、思っている以上に精神的に負担がかかる。事務員が悪いわけではなく、責任の所在が常にこちらにあるというだけ。でも、「先生、大丈夫ですか?」と聞かれても、「大丈夫だよ」としか言えない。逆に心配させてしまったら申し訳ないと思ってしまう自分がいる。
「先生」と呼ばれるのが逆にプレッシャーになる
「先生」と呼ばれるのはありがたい。でもその「先生」という言葉が、時には重く感じる。何でもできて当然、ミスは許されない、いつも冷静でいなければならない。そんな無言の期待がある気がして、つい無理をしてしまう。たとえ体調が悪くても、感情が乱れていても、「先生らしく」振る舞おうとする。気づけば、自分の素の感情にフタをしてしまっていた。
元野球部の性格が裏目に出る瞬間
元野球部というと「根性がある」「我慢強い」と思われがちだが、それがかえって邪魔になる場面も多い。限界まで我慢してしまう癖がある。以前、依頼人とのトラブルで胃がキリキリするような日々が続いた。でも「試合前に緊張するのと同じだ」と自分に言い聞かせて、乗り切ってしまった。気合いで何とかする方法を覚えすぎて、逆に“休む”とか“頼る”という選択肢が頭に浮かばないのだ。
地方という環境が作る“がんばらなきゃ”の空気
都会に比べて、地方の人間関係は濃い。いい意味でも悪い意味でも、周囲の目が近い。そんな環境のなかで、「〇〇さんのところの先生は大変そうね」と噂されるのが怖い。だからこそ、無理をしてでも笑って元気そうにしていたい。田舎の安心感の裏には、そんな“がんばらなきゃ”の空気が漂っている。時々それに押しつぶされそうになるけれど、それでも誰にも言えない。
笑顔の奥で限界を迎えそうな自分に気づく
本当は、もういっぱいいっぱいなのに、笑顔だけは保っている。ふとした瞬間に、鏡に映る自分の顔がひどく疲れていて、「あ、俺ってこんな顔してるんだ」と驚くことがある。限界に近づいていることに気づいても、「ここで崩れたら誰がやるんだ」とまた自分を奮い立たせてしまう。その繰り返しで、どんどん心の声が聞こえなくなっていった。
誰かのために笑ってたら、自分が消えていった
「心配かけたくない」「雰囲気を悪くしたくない」と思って笑っていたら、いつのまにか自分の感情がわからなくなっていた。誰かのために、誰かの目を気にして、自分の気持ちを後回しにする癖がついてしまった。気づけば、自分は何が嬉しくて、何が悲しいのか、わからなくなっていた。これはもう、笑ってごまかすなんてレベルじゃない。心が無表情になっていた。
気づけば本音を話す場所がなくなっていた
以前は、大学時代の友人とたまに電話したりしていたけれど、最近は連絡すら取らなくなった。本音を話す相手がどんどん減っていく。地元の仲間とも付き合いはあるが、どうしても仕事の愚痴や悩みまでは言えない。家に帰って一人で晩酌しながら、「誰かに聞いてほしいな」と思う夜がある。だけど、その「誰か」が思いつかない。そういうとき、何より孤独を感じる。
独身という立場の気楽さと孤独さ
独身というのは確かに気楽だ。好きに生活できるし、誰にも気を遣わずに済む。だけど、それは同時に「どこにも頼れない」ということでもある。熱を出して寝込んでも誰も気づかないし、食事を作ってくれる人もいない。とくに精神的にしんどいとき、独身という状態は想像以上に重たい。誰かがいてくれたら、少しは違ったのかなと思うこともある。
モテないって意外と精神衛生に影響する
正直、モテないことがこんなにも心に影を落とすとは思っていなかった。若い頃は「そのうちなんとかなる」と思っていたけど、40代も半ばになると、誰かに必要とされていない感覚がじわじわと効いてくる。異性に限らず、人とのつながりが薄れることは、自己肯定感にも影響する。だから余計に「ちゃんとした人間でいなきゃ」と笑ってしまう。つらいけど、認めたくない自分もいる。
無理に笑わなくてもいい場所を作っていきたい
最近ようやく、「無理に笑わなくてもいいんじゃないか」と思えるようになってきた。誰にも心配かけない完璧な人間でいる必要なんてなかった。むしろ、弱いところを見せることで、距離が縮まることもある。自分が先に心を開けば、相手も本音を話してくれるかもしれない。そんな関係を少しずつでも作っていけたら、自分も楽になる気がしている。
弱さを見せることは、恥じゃなかった
長年、「強くなければ」と思い込んで生きてきた。でも今は、「弱くてもいい」と思える瞬間が増えてきた。誰かに頼ってもいいし、しんどいときは「つらい」と言っていい。それを恥ずかしいと思わなくなってきたのは、少しずつだけど、年齢と経験のおかげかもしれない。本当に大切なのは、無理をして笑うことじゃなくて、自分らしくいられることなんだと気づいた。
同じようにがんばってる人に届けたい
この記事を読んでくれている誰かが、もし同じように「笑ってごまかす日々」に疲れているなら、伝えたい。「無理に笑わなくても、あなたの価値は変わらない」と。司法書士でも、先生と呼ばれる立場でも、人としての感情はある。誰かに心配かけたっていい。優しさを自分にも向けてあげてもいい。そんなふうに思える日が、少しずつでも増えていってほしい。