あったら便利な人生の登記簿
もし人生に登記簿があったなら、どれほど生きやすかっただろうと思うことがある。誰といつ出会い、何を約束し、どこで何を決断したのか。そういったことを一覧で確認できれば、少なくとも「なんでこうなったんだっけ」という虚しさからは解放される気がする。司法書士という職業柄、登記簿に慣れすぎてしまったせいか、自分の人生にも何かそういう「証明できるもの」が欲しくなる瞬間がある。だが現実には、そんなものはどこにもない。すべてがあやふやで、時に忘れられて、誰かの心の中で勝手に書き換えられている。
誰がいつ何を決めたのかを知りたい夜
ふとした夜、ふとしたきっかけで思い出すことがある。あのとき、あの人と別れた理由。あるいは、あの選択をした動機。そのどれもが記録に残っていない。仕事なら書面があり、ハンコがあり、日付がある。だけど人生には「決定権者」も「議事録」も存在しない。だからこそ、夜中にひとりで「誰がこの人生をこんな形にしたんだ」と問いかけてしまう。決めたのは自分だとわかっているのに、それでも誰かに責任を押し付けたくなるような夜がある。誰も見ていない帳簿を、一人で開き続けているような気分になる。
見えない過去に振り回されることの虚しさ
過去というのはやっかいなもので、書面がなければ曖昧になるし、感情が混じれば余計に歪む。登記の世界では、古い記録もきちんと保管されていて、何かあれば見直せる。でも人生の過去はそうはいかない。自分の記憶すら信用ならないし、他人の記憶はさらに当てにならない。そんな不確かな記憶に基づいて今を判断しなければならないことに、どこかむなしさを感じてしまう。いつの間にか、何か大切なものを置いてきた気がするのに、その場所さえ思い出せない。
あの時の選択に印鑑を押したのは誰だったのか
今になって振り返ると、人生の分かれ道は意外と多かった。あの会社を辞めたとき。あの女性との別れを選んだとき。何かを諦めたとき。それぞれに「印鑑を押した瞬間」があったはずだ。でも、その場には誰もいなかった。ただ、どこかぼんやりとした気持ちで決めて、後になって後悔だけが残る。その印鑑が、本当に自分の意思だったのか、それとも流されただけなのか。今でも答えは出ない。人生の意思決定って、案外そんなものかもしれない。
職業としての登記簿と心のギャップ
登記の仕事をしていると、書類さえ整えばすべてが前に進む。誰が所有者かも、誰が代表者かも、きっちり決まっている。そこに「気持ち」や「事情」は必要ない。だからこそ、仕事がスムーズに進むし、安心感もある。でもその安心感は、人生の悩みには通用しない。書類では整理できない感情が、どうしても自分の中で渦巻いている。きっちり処理できる世界に慣れてしまった分、感情の不確かさに苦しむ場面が増えたように思う。
法務局では整理できても自分の感情は整理できない
法務局に提出する書類は整っていて当然。ミスがあれば補正、足りなければ添付。でも、自分の中の感情や悩みは、どれだけ時間をかけても整理できない。毎日何件も登記申請を出し、完了通知を受け取りながら、「じゃあ自分の感情はいつ完了するんだ」と思ってしまうことがある。事務員にも相談できないし、相談されたら困るだろう。そんなことを考えていると、自分が扱っている制度の確かさと、自分自身の不安定さのギャップに、ひどく疲れることがある。
完了通知書は届いても安心通知は届かない
登記が終われば、完了通知がくる。これで一安心、となるのが普通だ。でも、人生にはそんな通知はない。誰かと関係が終わっても、通知は来ない。何かが失われても、証明はされない。なのに、自分の心にはずっと「未完了」のスタンプが押されたままだ。書類上は片付いていても、気持ちだけが取り残されていく。そんなことが何度もあった。何も通知されないまま、ただ静かに終わっていく。それが人生なんだろうか。
登記のミスよりも怖いもの
仕事のミスは怖い。特に登記では、一つのミスが大きなトラブルになる。でも、それ以上に怖いのは、自分の人生のミスに気づかないまま進んでしまうことだ。誰とも共有できない後悔。誰にも修正してもらえない感情。申請書を出して受理されないような思いが、心の中にずっと残ることがある。そして何より、そのミスがどこで起きたのか、記録も証明も残っていないのが一番怖い。だから、日々仕事に追われながらも、ふと立ち止まりたくなる。
見せられないページが多すぎる
人生を「登記簿」として見立てたとき、たぶん多くのページは誰にも見せられない。過去の失敗、傷ついたこと、恥ずかしい思い出。とてもじゃないが、誰かに開示できるものではない。それでも仕事では、人の人生の大切な情報を毎日扱っている。自分のことは見せられないのに、人のことは記録して処理している。その矛盾が、時々重くのしかかってくる。
優しさを書き込む余白がなかった
独立してからというもの、仕事に追われてばかりで、人に優しくする余裕なんてなかった。元野球部だった頃は、仲間を励ましたり、声をかけたりするのが得意だったはずなのに。今は、時間も心も余白がなくて、事務員にもつい冷たくしてしまう日がある。そんな自分に、あとから自己嫌悪する。人生の登記簿に「優しさ」の項目があったら、空欄ばかりかもしれない。もっと書き込めていれば、もう少し人との関係も違ったかもしれない。
モテなかった理由もたぶん書かれてる
正直に言うと、女性にモテたことはない。昔からそうだったが、司法書士になってからはさらに機会が減った。なぜなのか、理由を知りたい気もするけれど、それも人生の登記簿には記録されていない。書かれていたら、どこを直せばいいのかが分かってよかったのに、なんて考えてしまう。結局、誰にも確認できないまま、自分なりに修正しているふりをしているだけかもしれない。
女性に見せる用の人生ファイルは未完成
例えば、誰かに人生を見せるとしたら、それ用の「きれいなページ」だけをまとめたファイルが必要になる。でも、そんなページ、ほとんどないのが実情だ。仕事の話ばかり、愚痴ばかり。そんな人生を、誰に見せられるというのか。未完成なまま、誰にも見せることのないまま、今日も事務所の机の上に「人生ファイル」が積まれていく。それでも、いつか誰かに見てもらえる日が来ると信じて、少しだけ整えてみようかと思うこともある。
もしも心にも登記制度があったら
心の中に登記制度があれば、どんなに楽だろうか。誰かの言葉に所有権を持たせて、傷ついた瞬間に時効を設けて、感情の移転を記録する。そんな制度があったなら、今よりも少しだけ生きやすくなる気がする。けれど、心というのは曖昧で、柔らかくて、そう簡単には記録できないからこそ、人間らしいのかもしれない。
どこで所有権を失ってしまったんだろう
自分の人生に対して、いつからか「自分が所有している感覚」が薄れてしまった。誰かのために働き、何かに追われるうちに、いつの間にか「自分のものではない人生」になっていた気がする。仕事に支配されて、日常に飲まれて、気づけば自由に選択する力も失っていた。それでも登記簿には何も書かれていない。ただ黙って時間だけが進んでいく。
持分放棄の連続で残ったもの
仕事のため、家族のため、過去の自分のため。いろんな理由でいろんなものを手放してきた。そのたびに「持分放棄」しているような気がしていた。結果として、自分の中に何が残っているのか、よくわからなくなることがある。それでも今日を生きているということは、まだ完全に放棄してはいないのだと思いたい。どこかに、まだ登記できる価値が残っていると。
単独所有って意外と孤独
独身で、仕事場でもひとりが多く、意思決定も自己責任。それはある意味「単独所有」のようなものかもしれない。でも、それが続くと想像以上に孤独だ。誰とも共有しない、誰も立ち会わない人生。それでも、登記簿があるように、どこかで自分の存在を記録しておきたい気持ちがある。誰にも見せる予定はないけれど、今日もそっと、心のどこかに人生の記録を書き足していく。