先生と呼ばれることに慣れたけれど慣れたくなかった
司法書士になって十数年。気づけば「先生」と呼ばれることに慣れてしまっていた。でも、慣れるのと、好きになるのはまったく別だ。最初のころは「先生」なんて呼ばれるたびに少し誇らしかった。やっと世間に認められたような気がした。けれど、年月を経て、今ではその呼び方が少しずつ重たく感じる。名前ではなく肩書きで呼ばれ続ける日々。まるで、自分の中身ではなく「司法書士という役割」だけを見られているようで、心がすり減る。
最初はちょっと誇らしかった呼ばれ方
司法書士登録してすぐの頃、依頼人から「先生」と呼ばれた瞬間は、正直うれしかった。親にも「今日、初めて“先生”って言われたよ」と報告したくらいだ。地方の小さな町で、自分の存在が認められたように感じたのだと思う。学生時代、野球部で泥まみれになりながらも名前を呼ばれていた頃とは違う、ちょっと大人の階段を登ったような気分だった。
親にも報告した「先生って呼ばれた」日の思い出
母に電話して「先生って言われた」と言ったら、「まぁ、立派になったねえ」と笑ってくれた。家族のなかでも誰よりも早く社会人になった兄に、ようやく追いついたような気がして、誇らしかった。その夜はひとりでコンビニのワインを買って、ちびちび飲んだ。今思えば、その小さなお祝いこそが、本当に名前を呼ばれているような気持ちだったのかもしれない。
でも気づけばその呼び名に自分が隠れてしまった
「先生」という言葉には敬意がある。けれど、それと同時に壁もある。その人の人間性や温度感を遠ざけるような冷たさもある。何か言えば「さすが先生」、でも何も言わなければ「先生ってそういうもんですよね」と決めつけられる。自分の名前で会話していたはずの人間関係が、肩書きに支配されていく。そのことに気づいたとき、妙に寂しかった。
距離を置かれている気がする日々
依頼人との関係が悪いわけじゃない。事務員とも穏やかにやれている。けれど、日々の会話の中で「先生」と呼ばれるたびに、ひとつひとつ距離が空いていくような感覚になる。信頼という名のもとに生まれる緊張感は、ふとした瞬間に孤独を連れてくる。
信頼されてるはずなのに寂しい理由
「先生」と呼ばれると、なぜか気を張らなければいけない気がしてしまう。ミスは許されない。弱音も吐けない。完璧じゃないといけない。そのプレッシャーの下で、誰にも「○○さん」と名前で呼ばれないことが、静かに自分を苦しめていた。信頼されているのはありがたい。でも、それが人としてのつながりじゃなくて、ただの肩書きへの信頼なら、私はどうしたらいいのだろう。
事務員にはたまに名前で呼ばれる それだけでほっとする
うちの事務員さんは、たまに「○○さん」と名前で呼んでくれる。たとえば、仕事がひと段落したときに「○○さん、お茶入れますね」と言ってくれる。そんな他愛のないひとことに、どれだけ救われていることか。「先生」ではなく、「人」としてそこに自分がいることを思い出させてくれる。
名前で呼ばれたときの妙な嬉しさ
あるとき、懇親会で他士業の若手と話していたとき、「○○さんって、実はそういう人なんですね」と言われたことがある。「先生」ではなく、ちゃんと名前で呼ばれた。それだけで心がほぐれるような気がした。呼び方ひとつで、こんなにも違うのかと驚いた。
飲み会での「○○さん」が沁みた夜
年に数回ある司法書士会の集まりで、隣に座った若い行政書士の女性に「○○さんって、話しやすいですね」と言われたことがある。何気ない一言だった。でも、それがものすごく嬉しかった。恋でも何でもないけど、その一言で「自分」という人間が見られた気がして、少しだけ泣きそうになった。
野球部時代のあだ名を懐かしく思い出す
高校時代、野球部では「イナガキ!」と呼ばれていた。名字だけど、そこには仲間意識があった。怒られても、笑っても、走らされても、呼ばれるたびに「自分」がそこにいた。あの感覚が、社会に出てからどこかで消えてしまったのかもしれない。
肩書きじゃない自分を思い出せる瞬間
誰かが自分の名前を呼んでくれるとき、自分がただの役職じゃない、ひとりの人間なんだと感じられる。肩書きに縛られないで、名前で呼ばれる関係性は、心の居場所になる。そんな当たり前のことに、やっと気づいた気がした。
名前で呼ばれる関係を大切にしたい
もちろん「先生」と呼ばれることを全否定はしない。敬意の表れとして使われる場面も多いし、必要なときもある。でも、同時に、名前で呼び合えるような関係も大事にしていきたい。距離が近い人との言葉には、救われる瞬間が確かにある。
距離が近い人の言葉こそ支えになる
仕事でミスをしたとき、誰かに「先生だから気にしないでください」と言われるより、「○○さんも人間ですよね」と言ってもらえた方がずっと救われる。理屈じゃない。気持ちの問題だ。形式やマナーよりも、その人が自分をどう見てくれているか。それが自分にとっての支えになる。
「先生だから立派でいなきゃ」の呪いを少し緩めたい
「先生だから○○すべき」という暗黙の期待に、長年応えてきた。でも最近は、それが自分を苦しめていたと気づいた。失敗してもいいし、弱音を吐いてもいい。名前で呼ばれることで、その“呪い”が少しだけ解けた気がする。
敬意よりも共感がほしい日だってある
「先生って大変ですよね」じゃなくて、「○○さん、今日はしんどそうですね」って言われたい日もある。肩書きよりも、個人としての共感がほしいときがある。そんな日が続いてる、というのが正直なところだ。
自分を見失わないために 名前を取り戻す
名刺の肩書きの下に、小さく「元野球部」って書いてもいいんじゃないか。そんな冗談を真面目に考えてしまうくらい、名前で呼ばれることに飢えている。「○○先生」ではなく、「○○さん」として生きていく。そんな意識を持ち始めた。
名刺に小さく書いた「元野球部」の肩書き
最近、自分の名刺に趣味欄を加えた。「高校野球観戦」「ビール」「ときどきカラオケ」。そんな情報があるだけで、「あ、○○さんって野球好きなんですね」と言ってもらえるきっかけができる。会話が肩書きから始まるのではなく、ひとりの人として始まる。それが嬉しい。
名前で呼び合える世界をちょっと夢見る
もし司法書士業界が、もっと気軽に名前で呼び合える世界になったら。お互いを敬いつつも、フラットな関係でいられたら。そんな淡い期待を抱きつつ、今日も事務所のドアを開ける。たまには「○○さん、おはようございます」と言われたい、そんな朝があってもいい。