登記簿が語る最後の居場所
朝一番、事務所のドアが開いた音がした。扉の隙間から覗くと、妙に背筋の伸びた年配の女性が一人、こちらを見ていた。開口一番、彼女はこう言った。「亡くなった兄の家について、相談があります」。
相談内容は、相続に絡む登記の依頼だったが、妙に言葉を選んでいる様子が気になった。兄が亡くなったのはもう五年も前だというのに、今さら家の名義変更をしたいとは、何か事情があるのだろうか。
朝一番の訪問者と奇妙な依頼
「住所はここです」と差し出された紙を見ると、地元でもかなり寂れたエリアの住所だった。かつて農村地帯だったが、今では空き家だらけの地域である。女性は兄の死後、一度もその家に近づいていないという。
「なんとなく、怖くて」と彼女は言った。それ以上は語りたくなさそうだったので、私は黙ってメモを取ることにした。気味の悪い相談はこれまでにもいくつかあったが、今回は妙に胸騒ぎがする。
空き家となった家の名義に潜む違和感
登記簿を確認してみると、確かに彼女の言う通り、所有者は亡くなった兄の名前のままだ。しかし、驚いたのはその住所に「使用者不明」の名義変更申請がなされていた形跡があることだった。
「そんなはずはない」と彼女は震える手でメモを覗き込む。これは、誰かがその家を使っていることを示唆している。なりすましなのか、それとも無断で住み着いた者がいるのか。やれやれ、、、面倒な匂いがしてきた。
元住人はなぜいなくなったのか
近所の不動産業者に聞き込みをしてみると、三年前まで「若い男が住んでいた」という証言が得られた。どうやらその男は近所付き合いもせず、日中はほとんど姿を見せなかったらしい。
その人物についての記録は一切残っていなかった。不動産屋も「貸した覚えはない」と首を傾げるだけ。その男はどこから来て、どこへ消えたのか。まるで『ルパン三世』のように煙のように消えた存在だった。
役所の記録に残る名もなき転出者
役所で住民票を照会してみると、一度だけ「一時的な住民登録」がなされた形跡があった。しかし名前は伏せられ、理由欄には「保護措置」とだけ記されていた。これは、DV被害者や犯罪被害者などに使われる処置だ。
しかし、この情報は極めて限定的なはず。第三者がそれを知ることはできない。だとすれば、なぜ登記の変更にまで影響していたのか。司法書士としての好奇心が、じわじわと膨れ上がっていった。
ご近所の証言とサザエさん的日常のズレ
近所の古株の老婆がぽつりと語った。「あの家、夜になると灯りがついてたんだよ、誰もいないのにね」。サザエさんの世界なら「カツオのいたずら」で済む話だが、現実はそうはいかない。
「誰かが勝手に住んでるってことかもしれませんね」と私が言うと、サトウさんが冷たく返した。「それ、ただの不法占拠ですよ」。うん、そうだよね、と内心でうなずきながら、メモを見直した。
土地の境界と昔の分筆の痕跡
もう一度登記簿を確認すると、かつてその土地は隣地と一筆だったことがわかった。十数年前に兄が一部を取得して分筆していたようだが、分筆の方法が妙に雑で、隣地との境界が曖昧だった。
つまり、現実の利用状況と登記上の境界がズレている可能性がある。それが、この家の所在不明者問題に何らかの影響を与えているのかもしれない。調査の手を止めるわけにはいかなかった。
突然現れた相続人と破れた遺言書
その晩、依頼人の女性が再び事務所を訪ねてきた。「実はもう一人、弟がいるんです」。なんだって、、、今さら。彼女は古びた封筒を差し出した。そこには破れた遺言書の断片が入っていた。
「兄が生前、弟にだけ家を譲ると言っていたんです。でもその弟は、行方不明なんです」。それを聞いて、私は天を仰いだ。まるで少年探偵団のような複雑な展開に、頭が追いつかない。
サトウさんの冷静な分析と思わぬ推理
「シンドウさん、この家の登記申請、筆跡が妙です」とサトウさんが言った。筆跡鑑定など普段の業務では使わないが、言われてみれば違和感がある。「これ、本人の筆跡じゃないと思います」
サトウさんの一言で私ははっとした。そうか、誰かが弟になりすまして登記変更をしようとしたのではないか。だとすれば、あの若い男こそが鍵を握っているのかもしれない。
登記簿が暴いたもう一人の相続人
結論から言うと、若い男の正体は失踪していた弟だった。事情があり戸籍からも一時的に抹消され、登記や住民登録も制限されていた。だが、兄の死後、静かに家に戻り、遺言の通りに家を守っていたのだった。
あの「一時的住民登録」はその最後の痕跡。そして、姉がそれに気づかず、登記変更を依頼してしまったのだ。すべては登記簿が語っていた。静かに、しかし確かに。
家に隠された手紙と消えた真実
家を訪れたとき、押入れの中に一通の手紙が残されていた。そこには兄から弟への言葉が綴られていた。「家はお前に任せる。誰にも言わず、静かに暮らしてくれ」。涙でにじんだ文字に、家族の想いが込められていた。
誰にも気づかれず、誰にも知られず、それでも家を守ってきた弟。その静けさが、登記という形でようやく私たちに語られたのだ。
遺産より大切だったもの
結局、姉は登記の変更を取りやめた。「あの子がそこにいたのなら、それでいい」と微笑んだ。遺産でも、名義でもない。ただ、そこに彼がいたということ、それだけで十分だったのだろう。
「人間って面倒ですね」とサトウさんがつぶやいた。私はうなずいた。「でも、それが仕事だ」と答えた。まるで長谷川町子の一コマのような、切なくも温かい結末だった。
すべてが終わった静かな夜に
夜の事務所で一人、書類を片付けながら私はふと漏らした。「やれやれ、、、今日もまた書類より人間の方が複雑だったな」。外では蝉が鳴いている。サトウさんはもう帰っていた。
机の上に残った手紙のコピーが、仄かに揺れていた。静かな夜だった。