書類は完璧だったはずなのに
あの日の朝、机に並べた書類一式を眺めながら「よし、完璧だ」とひと息ついた自分を、今なら殴りたい気分になる。司法書士として十年以上この仕事をやってきて、書類ミスには人一倍気をつけているつもりだった。それなのに、それなのにだ。依頼人の名前、それも「旧姓」が残っていた。それに気づいたのは、すでに提出済みの後。しかも登記官からの電話。電話の第一声、「先生、これ旧姓になってますけど?」が、今でも耳にこびりついて離れない。
ふと気づいた一文字の違和感
登記完了予定の連絡を待っていた午後、なんとなく見返した控えの資料で、「あれ?」と違和感を覚えた。一見、まったく問題がないように見えるけど、どうしても気になる。ふと目に入った申請人の氏名欄に、旧姓が記載されたままだった。まさか、そんなはずはと何度も確認したが、確かに婚姻前の名前だ。パソコン上で履歴をたどってみると、最初に依頼人が送ってきた資料が旧姓で、そのまま下書きに使っていたのが原因。人為的ミスというやつだ。悔しいほど凡ミスだ。
原因はまさかの旧姓記載
依頼人が最初に送ってきた戸籍附票のコピー、それが旧姓表記だったことに、正直あまり疑問を持たなかった。というのも、本人確認書類では新姓がきちんと書かれていたから、無意識に「統一されている」と思い込んでしまったのだ。旧姓で出してしまったことは、形式上は致命的ではないにせよ、訂正と再提出の手間がかかる。これがもし、融資の期日に絡むような依頼だったら、笑えないどころか土下座ものだった。
しかもこっちの確認不足だった
「間違いがあったんですが…」と依頼人に連絡するのは、気まずいを通り越して恥ずかしかった。しかもその原因がこちらの確認不足となれば、言い訳の余地などない。依頼人は意外にも「私も確認してなかったです」と穏やかに受け止めてくれたが、内心どれだけ信用を落としたことか。信用を積むのは年単位、失うのは一瞬。肝に銘じた。
依頼人とのやりとりが気まずすぎる
仕事のミスを伝えるというのは、どの業種でもきついが、司法書士のように“信頼”を前提とした仕事では、それが格段に重くのしかかる。とくに今回は、依頼人が紹介で来てくれた方だったこともあり、顔向けができないという思いでいっぱいだった。言葉を選びすぎて、逆に変に気を使いすぎたのもよくなかったのかもしれない。とにかく、冷や汗が止まらなかった。
言いにくいミスの伝え方
「実は確認不足がありまして…」この一言を口にするまでに、何度も言い直した。LINEで伝えるべきか、電話か、それともメールか。結局電話で直接伝えることにしたけれど、向こうの声色が少し固まったのを感じた瞬間、胃がキリキリと痛んだ。仕事での信頼を裏切ってしまった自覚があるからこそ、誠意だけではどうにもならない場面もあると痛感した。
感情をぶつけられないようにする言葉選び
クレームが怖いというより、「失望」が一番堪える。だからこそ、相手の感情に火をつけないような言葉選びには神経を使った。事務的すぎず、でも謝罪が空回りしないように。「こちらの確認不足で、すべてやり直しになってしまい、本当に」…この一文を伝えるのに何時間も悩んだ。感情って、書類と違ってうまく整えられない。
正直、自分が一番落ち込んでいた
誰よりも落ち込んでいたのは、自分だった。事務員さんが「そんなに落ち込まなくても」と声をかけてくれたけど、いや無理。俺が情けない。自分の確認ミスで信頼を損ない、時間も無駄にして、挙げ句の果てに一人で勝手に落ち込んでる。中学時代、エラーしてベンチに戻る途中、監督に「下向くな」と言われた記憶がよみがえる。だけど、今回はずっと下を向いたままだった。
やり直しの時間と精神的ダメージ
やり直し自体は手間がかかるだけならまだいい。問題は、精神的な消耗の方だ。書類を再作成し、再度押印・郵送手配をし、提出先と調整し、依頼人へのフォロー連絡を続ける…その間、ずっと「俺のせいで…」という思考が脳内ループする。1件のやり直しが、1週間分の疲れを呼ぶ。
午前中の努力が全部無効
朝イチから集中して作り上げた書類一式が、ミスひとつで台無しになる。もうこの感覚、何度経験しても慣れない。時間が戻ればと願うけど、戻らない。再提出の準備をしながら、自分の段取りの甘さに腹が立つ。リズムを崩されると、その日の業務全部に影響が出るのも地味につらい。
事務員にも謝り倒す昼下がり
再提出に伴って発生する手続きは、事務員さんにも負担をかける。押印書類の再送付やスキャン、郵便手配、ファイル整理など…全部お願いするわけにもいかず、自分でやるにしても気まずさは残る。「申し訳ない」と5回は言った気がする。結局、二人して無言になった午後だった。
おにぎりの味がしなかった日
昼ごはんに買ったコンビニのおにぎり。梅干しの味がしなかった。味がしないというのは、こういうことかと実感した。食べてるけど、食べてない。息をしてるけど、生きてない。そんな気分だった。疲れと自己嫌悪が重なると、食事も無味になるんだなと、どうでもいいことだけ学習した。
この仕事の厳しさを痛感する瞬間
改めて思う。司法書士という仕事は、紙一枚、名前一つで信頼も評価も変わってしまう。どれだけ頑張っていても、「一つのミス」で帳消しになるのが現実だ。完璧を求められるのは当然。でも人間である以上、ミスはゼロにはできない。だけど、ゼロに近づける努力はしないといけない。そのジレンマに、今日も胃が痛い。
名前一つで全部崩れる世界
今回の件は、たった一文字の違い。それだけで登記は不備扱い。もう何年もやってる仕事なのに、いまだに名前の扱いには緊張感がある。結婚、離婚、改名…人の名前は変わるもの。だからこそ、そこに気を抜いてはいけないのに、気を抜いた。そして痛い目を見た。
信頼を扱うというプレッシャー
お金以上に、司法書士は“信頼”を預かっている仕事だと思う。だからこそ、些細なミスも言い訳できない。登記完了の報告が無事に終わるまで、プレッシャーがのしかかる。最近は夢にまで出てくる始末。事務所に電話がかかってきて「これ、間違ってませんか?」という夢。笑えない。
それでも投げ出せない理由
それでもやっぱり、この仕事を投げ出せない理由がある。感謝されるとやっぱり嬉しいし、誰かの人生の大きな節目に関われるのは誇りでもある。失敗のたびに辞めたくなるけど、そのたびに「もう少しだけ頑張ってみよう」と思う。次は絶対、旧姓なんかでつまずかないように。