やっと取れた休みのはずが憂鬱の始まり
世の中には「休みが嬉しい」という人がいるらしい。だが、司法書士という職業をしていると、その感覚がだんだんと麻痺してくる。やっとの思いで取った1日の休み。その前夜は少しの罪悪感と、少しの解放感でビールがうまい。けれど、そんな気分も長くは続かない。翌朝、事務所のドアを開けた瞬間、背筋を冷たいものが走る。積み上がる郵便物、未読メールの山、電話メモの束。そう、休みとは「次の地獄を予約する行為」なのだ。
休日が怖いという矛盾
私も昔は休みが好きだった。高校野球部の頃なんて、オフの日は天国だった。でも司法書士として独立してからは、休むことへの恐怖がじわじわと染みついていった。休んだら誰が対応する? 事務員? いや、あの子は契約書の読み方すら怪しい。となると、結局全部自分に跳ね返る。頭の中では「たまには休んでもいい」と思っているのに、身体はどこか不安で、落ち着かない。だから休日なのに事務所のFAXの音が脳内再生されてしまうのだ。
メール未読120件の現実
たった一日でも、メールは容赦なく溜まる。開業当初はクライアントが少なかったから、1日休んでもメールは10通以下だった。それが今では120件を軽く超える。「先生、至急お返事を」「お電話差し上げましたが…」という文言が並ぶ受信トレイは、まるで爆弾処理班への挑戦状のようだ。どれから手を付ければいいのか分からず、ただただスクロールする自分がいる。そして気づく、今日も一通も返せていないことに。
誰も代わりをしてくれないという真理
事務所には事務員が一人いる。明るくて感じの良い子だ。でも、彼女には決裁権もなければ判断力もない。無理もない。司法書士ではないのだから。たとえば「抵当権の抹消書類、どっちの住所を使うべきですか?」と聞かれても、答えられるはずがない。つまり、私が休んでいる間は、何も進まない。代打がいないのだ。まるで草野球のエースが一人抜けたチーム。結局、全部自分で背負うしかない。それが独立した司法書士の宿命だ。
休んだ代償は倍返しどころではない
たった一日の休み。それだけで仕事は2日分以上に膨れ上がる。いや、実際には3日分かもしれない。休んだことで進まなかった仕事、クライアントからの催促、そして溜まった郵便物や申請書の山。まるで、時間が逆流して自分に襲いかかってくるような感覚。何より厄介なのは、その忙しさが「自業自得」と言われても反論できないこと。休んだのは自分。誰のせいでもない。ただ、もう少しだけ誰かに「分かるよ」と言ってほしい気もする。
机の上に積まれた書類のタワー
休み明けに事務所へ行くと、机の上が一変している。まるでタワーマンションの模型のように積まれた書類。封筒、申請書、メモ、領収書…。その中には「今日中に!」と赤字で書かれたものも混じっている。目を通すだけで午前中が終わり、内容を理解しようとした時点で午後は終了する。結局、まともな仕事は翌日からになる。でも、その翌日はすでに次のアポで埋まっている。この負の連鎖から抜け出す方法は、いまだに見つかっていない。
依頼者は待ってくれない
こちらが休みであろうと、相手の都合は待ってくれない。先日も「昨日電話したのに出ませんでしたね」と軽く嫌味を言われた。心の中では「昨日は休みだったんですよ」と叫びたかったが、言えなかった。言っても意味がないのだ。司法書士は常に“即レス命”。迅速対応が信頼につながる職業だ。だから、休む=信頼のリスク。わかっている、わかっているけど、それでも人間には休息が必要だろう。…と、誰に言ってるのかもわからない呟きを繰り返す。
急ぎと書かれた付箋はたいてい全部急ぎ
付箋地獄。これも休み明けあるあるだ。事務員が気を利かせて「急ぎです」と書いた付箋を書類に貼っておいてくれるのだが、全部に貼ってある。10枚中10枚に「急ぎ」とある。もはや優先順位がつけられない。「これは本当に急ぎなのか?」と問いかけながら結局すべて手をつけざるを得なくなる。そして案の定、何も終わらない。夕方になってようやく1件だけ処理が終わり、ため息をついた頃には外は真っ暗。やっと一歩進んだ、と思ったら、後ろに20歩引き戻されていた。
事務員がいるのに何も進んでいない問題
「事務員がいるんだから、少しは仕事進んでるでしょ?」と知人に言われたことがある。でも現実は甘くない。彼女なりに頑張ってくれているとは思う。でも、司法書士の業務の大半は“判断”と“責任”。それは私にしかできない。結局、私が休んだ日は、机の上にそっと全てが残されている。触れられず、ただ時を止めて待っている。それがまた、プレッシャーとなって肩に重くのしかかるのだ。
分からなかったので置いておきましたの恐怖
この一言、「分からなかったので置いておきました」。これが一番恐ろしい。ミスされるより怖い。間違っていても動いてくれた方が修正が利く。でも何もしないという選択が一番の時間泥棒だ。例えば、登記簿の読み方が分からないからチェックしておいてほしいと言った資料。私が戻ってくるまで、机の隅にちょこんと置かれていた。手書きの付箋とともに。その紙が案件の進行を3日も止めていたと気づいたのは、3日後だった。
自分がいないと回らないという幻想
この仕事、自分がいないと回らない。そう思ってしまうのは、ある種の傲慢かもしれない。でも、現実として事務所は私の手でしか動かない部分が多すぎる。逆に言えば、自分が倒れたらすべて止まる。だからこそ、休むことが怖い。でもそれは「責任感」ではなく「不安」だと最近は思うようになった。不安が常に背中を押して、休みたい心をねじ伏せている。これって、健康なんだろうか。
頼られてるのか放置されてるのか
昔は「先生にしかお願いできません」と言われると嬉しかった。でも今は少し違う。「自分しかできない仕事」に囲まれていると、だんだん麻痺してくる。「頼られている」というより「放置されている」と感じる瞬間もあるのだ。みんな、こちらがいないと分かったら、そのまま放置しておく。判断はすべて後回し。まるで、時間が止まったかのように。その中で、自分だけが慌ただしく走り続ける。誰も並走してくれないマラソン。孤独な業務だ。
それでも休みたいという切実な願い
愚痴ばかり並べてしまったが、それでも私は「休みたい」と思っている。休まなければ壊れる。身体も、心も。たった半日でもいい。誰にも連絡されない時間を確保したい。ただし、そのためには前後の3日は捨てなければならないという現実。司法書士の“休む”という行為は、ある意味で“闘い”なのかもしれない。だが、こうして書くことで少しは気持ちが整理されるのも事実。誰かの共感に届けば、それだけでも今日は少しだけ救われる。
心と身体が壊れる前に
無理をし続ければ、いずれ限界が来る。独立して15年、私はそのギリギリの境界を何度も見てきた。過労で倒れた友人もいる。心を病んだ同業者もいる。私はまだ立っている。でも、立っているだけでは続けられない。休むことは、甘えではない。生き延びるための戦略だ。だからこそ、今日も一歩でもいいから「休む勇気」を持ちたい。…まぁ、それが一番難しいんだけど。