一人で平気なふりが日常になっている
忙しい日々の中で、誰かに「大丈夫?」と聞かれることが増えてくると、逆にそれが負担になる瞬間がある。こちらとしてはただ淡々と仕事をしているだけなのに、余計な心配をかけてしまうことへの申し訳なさ。そしてそのたびに、心の中で「大丈夫に見えなかったか」と不安になる。そんな葛藤を抱えたまま、今日も机に向かう自分がいる。
「気にされること」が重荷に感じるとき
心配の言葉が、優しさであることは重々わかっている。それでも、何気ない「大丈夫?」が、まるで自分のダメさを再確認させられているような気がしてくる瞬間がある。昔、元同僚に「いつも気を張ってて疲れない?」と聞かれたとき、何も答えられなかったことを思い出す。
元野球部気質の「大丈夫」は本音じゃない
学生時代、ケガしてても監督には「いけます」って言ってた。大人になってもそのクセが抜けない。「無理してない?」と聞かれても、反射的に「いや全然」と言ってしまう。ほんとはちょっと無理してる。でもそれを口にするのが面倒で、結局ひとりで抱えるのが楽になってしまった。
「助けてほしい」と言える人は強いと思う
誰かに頼るって、簡単なようでいてものすごく勇気がいる。特にこの仕事をしていると、「人に頼られる側」でいなきゃという意識が強くなる。だからこそ、「手伝って」と言える人のことを、心底すごいなと思っている。
誰からも心配されないと急に孤独になる
気にされるのが苦手だから、ひとりで放っておかれたほうが楽だと思っていた。でも本当に誰にも気にされない日が続くと、今度は妙な孤独感に襲われる。たとえば事務所でインフルエンザにかかった時、誰からも連絡がなかったときの寂しさ。あれは少し応えた。
ひとり時間は気楽だけど寂しさはついてくる
昼休みに誰とも話さずにコンビニ弁当を食べて、午後はそのまま淡々と業務。誰とも関わらずに1日が終わると、楽なようで何かが欠けているような感覚に陥る。「人に囲まれて疲れる」のと「誰もいない」はまったく別のストレスだと気づかされる。
気にされることが「生きてる証拠」になるとき
学生時代の部活仲間からたまに届く「元気か?」というLINE。普段は面倒で既読スルーすることもあるけど、やっぱりあれがあると嬉しい。自分の存在がどこかで覚えられてる。誰かの記憶にいる。それだけで心が少し救われる。
構ってほしいわけじゃないけど見ててほしい
「かまってちゃんじゃん」と言われたら全否定したくなるけど、実はちょっと違う。「ひとりで大丈夫な人」と思われ続けるのもそれはそれでしんどい。時々でいいから、そっと様子を見てくれる人がいたら、それだけでいい。
司法書士という職業の「強さ」と「脆さ」
人のトラブルを解決する立場にいる以上、自分の弱さを見せる場面はなかなかない。でもだからこそ、ふとしたときの心の揺れが大きい。誰にも言えないまま、「もう辞めたい」とつぶやいてしまう夜もある。
頼られることと孤独は背中合わせ
依頼者にとって自分は「解決してくれる人」。それは誇りでもあるけど、裏を返せば、自分が誰かに頼る場面はほとんどない。だから、どれだけ疲れていても「まだいける」と自分に言い聞かせてしまう。元野球部の悪いクセは、いまだ健在。
信頼されるために無理をする癖がついた
「先生、頼りにしてますよ」って言われるたびに、無理してでも期待に応えなきゃと肩に力が入る。そんな毎日を繰り返していたら、いつのまにか「弱音の出し方」を忘れていた気がする。きっと、もうちょっと力抜いてもいいんだろうけど。