趣味だったものが楽しめなくなった日

趣味だったものが楽しめなくなった日

あれほど夢中だったのに心が動かない

かつては、どんなに疲れていてもバットを振る時間だけは欠かさなかった。仕事でヘトヘトになっても、夜のグラウンドに向かう道中は不思議と足取りが軽かった。それが、最近はどうだろう。道具に手を伸ばす気力すら湧かず、グローブが置かれた棚のほこりにすら気づかないふりをしている。楽しみだったはずの時間が、今では遠い過去の話のように思えてならない。

久しぶりに触ったグローブの重さ

ある休日、思い立って久々にグローブを手に取った。手に吸い付く感覚が懐かしい…はずだった。でも、なぜか妙に重かった。物理的な重さじゃない。思い出や未練、今の自分の余裕のなさが、革の重みに乗って押し寄せてきたようだった。心の中で「またやる気になればいい」と繰り返しながらも、グローブは再び棚の奥に戻された。

野球がくれた情熱と今の空虚さ

高校時代、野球はすべてだった。汗と泥にまみれて、仲間と過ごした時間は今でも色あせない。でも今の自分には、あの時のような情熱はない。書類の山を前に、ミスを恐れ、責任に押しつぶされそうになっている日々。野球がくれた情熱は、どこへ行ってしまったのだろうか。代わりに残ったのは「忙しいから」と自分を納得させるための言い訳ばかりだ。

過去の自分とのギャップがしんどい

一番つらいのは、過去の自分と今の自分の差を痛感することだ。「昔はもっと頑張れたのに」「前はちゃんと楽しめてたのに」。そんな思いが、今の自分を責めてくる。でも、年齢や環境、立場が変わった今、同じように振る舞えないのは当然だと頭ではわかっている。それでも、比べずにはいられない。あの頃の自分のままでいられたら、どんなに楽だったか。

仕事に追われると楽しみはノイズになる

司法書士としての日々は、気を抜けば一気に崩れるほど綱渡りだ。依頼人の事情、期限、書類の正確さ、ミスへの恐怖…。そういったプレッシャーにさらされる毎日では、かつて癒しだった趣味すら、頭の片隅で「時間のムダ」に感じてしまう。何も考えず没頭できていたはずの時間が、今では「やるべきことを放り出している罪悪感」に変わってしまっている。

休日のバッティングセンターに行く気力もない

昔はストレス発散の場だったバッティングセンター。気分転換になるからと、スーツのまま寄ったこともある。でも最近は、バットを振るどころか、そこに向かう気力すらない。休日はもっぱら寝るか、仕事を思い出して鬱々とするだけで終わる。心身の疲れが溜まりきっていて、楽しいことさえ「しんどい」に変わってしまったようだ。

予定のない休日の方が逆に疲れる

皮肉なことに、予定がまったくない休日のほうが、かえって疲れる。スマホをいじりながら過ごす時間が虚しく、何もしないことへの焦りがじわじわと心を侵食する。仕事に追われていた時のほうがまだ生きてる実感があったかもしれない。せっかくの自由時間なのに、それを活かす気力も工夫も残っていない。そんな自分に、また自己嫌悪を重ねてしまう。

心の余裕がなければ趣味は苦行になる

結局、趣味を楽しめるかどうかって、時間よりも「心の余裕」があるかどうかに尽きると思う。どれだけスケジュールを空けても、気持ちが疲弊していたら何にも手を出す気になれない。義務感で始めた瞬間に、それはもう趣味じゃなくなる。心の中が荒れていると、どんなに楽しかったものも、ただの雑音になってしまうのだ。

「趣味を楽しむ余裕がない」は甘えなのか

「趣味を楽しむ時間もないなんて、要領が悪い証拠」「時間の使い方が下手なんだよ」。そんな言葉を、実際に誰かに言われたわけじゃないのに、心の中で自分自身が言ってくる。確かにそうかもしれない。でも、それだけで片付けられるほど単純な話じゃない。疲れて動けない夜、ふと「自分は本当に甘えてるだけなのか」と問いかけては、また黙り込んでしまう。

義務感で趣味を消費しないために

「昔好きだったから」と無理に再開するのは危険だ。義務感で向き合えば、それはもう消耗戦だ。誰に求められているわけでもないのに、「楽しめなきゃダメだ」と自分を追い詰めてしまう。そんな時こそ、少し距離を置くのも必要かもしれない。いつか自然と「またやりたい」と思える日が来ると信じて、今は無理に振り返らなくてもいい。

誰かと共有できない孤独が拍車をかける

趣味が楽しいのは、たぶん「誰かと共有できる」からでもあるんだろう。たとえば、バッティングセンターに行った話を聞いてくれる人がいれば、それだけでちょっとした出来事になる。でも独り身で話し相手もいないと、どんな体験も心の中だけに留まってしまう。そうなると、趣味を通して得た喜びもどこか空しくなる。

話し相手がいない趣味の終わり

昔は事務員さんと少し雑談するだけでも救われた。でも今は彼女も忙しく、業務連絡がほとんど。仕事以外の話をする機会が極端に減った。たまに誰かと雑談しても、どこか心がすれ違っていて、自分の趣味を語るのが億劫になる。「話しても盛り上がらないだろうな」と思うと、結局何も話さずに終わってしまう。

「一緒に楽しむ相手」がいない現実

趣味の話をして「いいね」と返してくれる人がいないと、だんだん趣味そのものが色あせていく。野球の話をしてもピンと来ない相手ばかりで、わざわざ話題に出す気もなくなる。一緒に行こうと誘える相手もいない。気づけば、「趣味だったこと」がただの「過去の話」に変わってしまっていた。

独身男性司法書士の週末あるある

週末、誰とも話さずに一日が終わる。買い物はネット、昼飯はコンビニ、夕方にようやく言葉を発したのは宅配の受け取りだけ。そんな日が当たり前になってくると、もう何が趣味だったのかすら忘れてしまう。独身で地方在住の司法書士、という肩書きは、思っている以上に孤独の温床だと実感している。

それでも趣味を手放さない理由

ここまでくると、趣味を手放してしまったほうが気が楽かもしれないと思うこともある。でも、それでも完全には捨てられない。なぜなら、どこかでまた「戻ってきたい」と思っている自分がいるからだ。無理に今楽しむ必要はない。でも、「また楽しめる日が来る」と信じることが、今の自分を保つ支えになっている。

また楽しくなる日が来るかもしれない

趣味は、今この瞬間に楽しめなくてもいいと思う。調子が戻れば、自然とやりたくなることもあるだろう。今はただ、静かに待つ時期なのかもしれない。道具を捨てるのではなく、そっとしまっておく。そんなスタンスが、自分にはちょうどいい。焦らず、見栄を張らず、「今はそんな時期」と受け入れることが、何より大事なのかもしれない。

楽しめない時間も人生の一部と認める

「楽しめない自分」もまた、自分の一部だ。今の自分を否定してばかりでは、どんどん苦しくなる。だからこそ、趣味を楽しめない時間すら、自分の人生の一部として受け入れていくしかない。やがて、心の天気が変わる日が来たときに、また自然と笑えるように。今はただ、心のままに静かにしていよう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。