見えない境界線に恋は落ちる
朝の私道と通勤の足音
八月の朝は、どこか憂鬱だ。蝉の鳴き声が事務所のガラス窓を震わせ、汗ばんだワイシャツの襟をさらに不快にする。私はいつものように、少しだけ遅刻気味に出勤していた。
塀越しの依頼人
事務所の前に立っていたのは、淡い水色のブラウスに身を包んだ女性だった。目元にかすかな疲れをにじませながら、彼女は「私道を通らせてもらえない」と呟いた。その目に浮かぶ切実さが、ただの隣地トラブルではないことを物語っていた。
地役権ってなんだっけ
地役権。司法書士として何度も扱ってきたはずなのに、恋愛と絡んだ瞬間、まるで別物に見えてくるのはなぜだろうか。彼女の言葉はこうだった。「あの人が私を避けるのは、きっとこの私道のせいなんです」
サトウさんの調査開始
パソコンの前に座るサトウさんは、例によって無表情だった。「登記簿上は通行の地役権が設定されています。問題は、、、実際に通らせてもらえてないってことですね」さらりと事実を突きつける口調は、もはや探偵事務所のそれだった。
怪しい隣人と黙った権利
私道の持ち主である隣人は、玄関から顔を出すことなく、ただ庭の手入れをしていた。「話しかけても無視されるんです」と依頼人は言う。地役権を主張するも、それを現実に使わせてもらえない。この沈黙が、何より不気味だった。
過去の登記に潜む矛盾
法務局で取得した古い謄本をめくっていた私は、小さな疑問に突き当たった。平成十六年に設定されたはずの地役権。しかし、隣地の所有者はその二年前に変わっていた。おかしい。順序が逆だ。そこに嘘がある。
恋の噂と通行トラブル
近所のクリーニング屋のおばさんが囁いた。「あの娘さん、前はここの若旦那とええ仲やったけどね、、、」サザエさんのノリで言うなら、まるでワカメちゃんとノリスケが修羅場を迎えたような展開だ。やれやれ、、、地役権でこじれる恋なんて聞いたことない。
境界の杭が語るもの
現地調査に出たサトウさんは、古い境界杭を発見した。通常より内側に打たれている。「これは通行を前提にした線じゃありませんね」その一言が決定打になった。つまり、恋愛のもつれで境界が操作されていた、、、そんな馬鹿な。
地積測量図と手書きのメモ
依頼人の自宅から見つかった古い測量図。端には「ヨウコは通してやれ」と走り書きがあった。元の所有者、つまり前の彼氏の父親の文字だった。そこに法的効力はなくとも、心の地役権が確かに存在していた。
そして封筒が届いた
ある日、事務所に一通の封筒が届いた。内容証明だった。隣地の現所有者からの通知。「通行を認める。過去の経緯は水に流したい」その文面には、短く「ごめん」と手書きの追伸が添えられていた。恋も、やっと一区切りついたのだろうか。
やれやれ、、、また恋の話か
私は椅子に身を沈めて、コーヒーをひと口すすった。地役権と恋愛なんて、交わるはずのない世界。それがこんなにも複雑に絡むなんて、人生ってのは本当にややこしい。やれやれ、、、また恋の話か。
隠された承諾書の行方
封筒にはもう一つ、未登記の地役権設定承諾書が同封されていた。署名は、十年前の日付。そして宛名は、今回の依頼人だった。この書類があれば、全てがスムーズに進んでいたはず。だが、恋がそれをしまい込ませた。
小さな通路に咲いた証拠
私道の隅に、小さなプランターが置かれていた。そこに咲いた花は、かつて彼が好きだったというピンクの百日草だった。「見てほしかったんです」と彼女は微笑んだ。それはもう、通行のためではなく、心のための花だった。
サトウさんの決め球
「ところで、この件は慰謝料請求も可能ですが?」とサトウさんが言ったとき、依頼人は困ったように首を振った。「もういいんです。ただ、通れるだけで」その瞬間、私は心の中で拍手を送った。サトウさんの球は、やはりストレートだった。
境界線の向こうで
境界線の先にあるのは、ただの通路だ。しかし、その向こうに何を見ていたのか。それは人によって違う。ある人には未来、ある人には過去。依頼人にとっては、未練を通してやっと歩けるようになった道だった。
恋と権利の静かな終わり
すべてが終わったあと、私は事務所の戸を閉めた。夏の風が、どこか乾いた空気を運んでくる。恋と法律。交わるはずのなかったふたつが、一つの事件を静かに終わらせた。やれやれ、、、俺も誰かの境界線に踏み込みたいもんだな。