人の戸籍を見るたびに自分のまっさらが沁みる

人の戸籍を見るたびに自分のまっさらが沁みる

他人の戸籍をめくるたびに湧く感情

司法書士という仕事柄、戸籍を見る機会は日常茶飯事だ。何百、何千という戸籍謄本を見てきた。それぞれの欄に、家族の歴史が刻まれている。出生、婚姻、離婚、養子縁組、死亡──書類にすぎないそれらの記載が、人生の一部であることは疑いようがない。そしてそのたび、自分の戸籍を思い出す。婚姻欄は空白、子の記載もなし、住所の異動だけがぽつぽつと並ぶ。誰にも責められていないのに、なぜか胸が痛くなる。

記載された名前ににじむ家族の物語

ある日、相続手続きのために依頼者の戸籍を確認したとき、ひときわ目を引く記録があった。昭和生まれの父母に始まり、三人の兄弟姉妹、そして本人の結婚、長男の誕生…ページをまたいで連なる記録は、まるで一冊の小説のようだった。ああ、この人には「物語」がある。そんな感覚に襲われた。もちろん戸籍には感情はない。ただの事実だ。しかし、それを読み解く自分の中には感情が芽生える。

出生の記録に感じる温度

「昭和五十八年一月一日 出生」たったそれだけの一文なのに、不思議とぬくもりを感じることがある。冬の朝、病院で産声を上げた赤ん坊の姿が、勝手に想像されてしまう。家族が見守る中で生まれたのだろうか。雪が降っていたのか。まるでドラマのワンシーンのような感情が、戸籍の行間に宿るのだ。感傷的だと言われればそれまでだが、仕事を機械のようにこなすだけではいられないのが、司法書士の性なのかもしれない。

結婚や子どもの欄に漂う生活感

婚姻の記録、配偶者の名前、子の出生──それらの欄が埋まっていると、そこに家庭の営みが浮かぶ。正月の食卓、運動会のビデオ、家族写真。直接的に記されていないはずの光景が、自然と頭に浮かぶのだ。逆に、自分の戸籍にそうした欄が一つも存在しないことを思い出すと、胸にぽっかりと穴があいたような気持ちになる。ただの書類に、なぜこんなに気持ちを揺さぶられるのか。やはり、自分の人生を他人と比べてしまうからだろう。

自分の戸籍に広がる空白と沈黙

正直、自分の戸籍を見るのは気が進まない。婚姻の記載はなく、子の欄ももちろん空白。誰かと繋がった形跡が一つもない。まるで、誰の人生にも関与していない証明書のようだ。昔は「いつかは欄が埋まる」と思っていたが、気がつけば四十代半ば。「このまま白紙で終わるのか」という不安が、時おり襲ってくる。

欄が埋まらないことへの焦り

仕事に追われているうちは、気が紛れている。でも、ふと空いた休日や、他人の幸せな話を聞いた後などに、じわじわと来る。「自分の戸籍、いつになったら変わるんだろう」と。焦って誰かと付き合っても長続きしなかった。もう無理に誰かと暮らそうとすることが、逆に苦しくなってしまった。

「独身」の二文字が胸を刺すとき

独身であること自体は、悪ではない。でも「独身」と活字で突きつけられると、それは時として自分の人生を否定されたような気分になる。特に相続の仕事では、被相続人の配偶者や子供たちの関係性を調べるために、何十通もの戸籍を読む。その過程で「誰とも縁を結ばず終わる人生」の寂しさが、妙にリアルになる。

仕事として見るか 人間として感じるか

司法書士としては、戸籍は事務的な資料でしかない。正確に読み解き、必要な法的処理を行うためのツールだ。しかし、人間としては、そこに宿る人生や関係性にどうしても目がいく。きれいに並んだ記録の裏側に、泣いた日や笑った日があったのだと感じずにはいられない。

プロ意識では割り切れない一線

当然、感情に引っ張られてばかりでは仕事にならない。だからといって、すべてを無感情に処理できるほど、自分はできた人間ではない。業務の手は止めないが、心のどこかではいつも何かが疼いている。戸籍を見ながら、「この人には帰る家があるんだな」と考えてしまう。それを抑え込むのは、なかなか難しい。

業務として処理することへの限界

戸籍は情報だと頭ではわかっている。でも、その情報の向こうに「人」がいると認識した瞬間、完全な無機質ではいられない。たとえば、養子縁組の記録があったとき、その背景にどんなドラマがあったのか、つい想像してしまう。そして自分にはそういうエピソードが何一つないことに、思わずため息をついてしまう。

感情を切り離せない瞬間の存在

特に夜遅く、事務所で一人で書類を見ているときは、感情の波が押し寄せてくる。誰の声もない中で、一人きりで他人の人生の証明書を見つめていると、「自分の人生って何だったっけ」と考え込んでしまう。そんなとき、事務員の子が「先生、お茶入れますね」なんて声をかけてくれると、心が救われる。

比べるなと思っても比べてしまう

「人と比べるな」とよく言われる。でもそれができるなら、とっくにしている。どうしても、見えてしまうのだ。他人の欄が埋まっているほど、自分の空白が浮き彫りになる。そのギャップに、耐えきれなくなるときがある。

無意識に他人の人生に自分を重ねる

ある依頼人の戸籍を見ていて「この人、同い年だな」と気づいた。既に結婚し、子供が二人、持ち家もある。比べても仕方がないとわかっている。でも、自分との違いにやっぱり落ち込む。そして「このままでいいのか」とまた悩みのループに入る。答えなんて出ないくせに。

戸籍が語るのは「幸せ」ではなく「選択肢」かもしれない

ただ、最近少しだけ考え方が変わった。戸籍は「幸せの記録」ではなく「選択の記録」なのかもしれないと。誰かが選んできた道、その証明でしかない。自分も、独身を選んできたわけではないが、仕事を優先してきたという「選択」をしたのだ。ならばその結果も、受け入れて生きていくしかない。

空白がある人生も悪くないと思いたい

空欄だらけの戸籍。それでも、自分なりに歩んできた道ではある。後悔がないとは言わないが、それでも何人もの依頼人に「ありがとう」と言ってもらえた記憶は、確かに残っている。欄は埋まっていなくても、自分の時間は空虚ではなかったと信じたい。

過去の選択に言い訳をしないために

これまで何度も「結婚しなかったこと」に対して言い訳を探してきた。でも、もういい加減やめようと思う。言い訳よりも、今をしっかり生きることのほうがよほど大事だと、ようやく思えるようになってきた。遅すぎるかもしれないけど、それでも進んでいる。

仕事に逃げた日々も自分の一部

若いころ、仕事に逃げた。恋愛に失敗したときも、親と喧嘩したときも、結局事務所に来て、登記の準備や申請に没頭した。でもその時間があったから、今がある。逃げではなく、積み上げだったのだと思いたい。自分を少しでも肯定していかないと、前には進めない。

空欄を責めず、抱きしめる努力

白紙の欄を見て落ち込むことは、これからもあると思う。でもそれは、悪いことではない。自分が何かを望んでいる証でもあるからだ。空欄があるなら、それはまだ記せるということ。だからもう少し、未来に希望を持って生きていきたい。白紙は、可能性でもあるのだから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓