気づけば趣味と呼べるものがなくなっていた
ふとした瞬間、誰かに「趣味って何ですか?」と聞かれて、言葉に詰まることがある。若い頃は次から次へと答えられたのに、今は「特にないですね」と苦笑いでごまかすしかない自分がいる。なぜだろう。趣味に使う時間がないのか、気持ちが乗らないのか、それとも心の奥にある疲れが理由なのか。45歳、司法書士事務所を一人で切り盛りしていると、生活が仕事に染まっていって、気がつけば“趣味”という言葉が遠のいていた。そんな自分に、少しだけ寂しさを覚える。
昔は夢中になれることがたくさんあった
学生時代はとにかく時間があったし、何にでもすぐ夢中になれた。高校時代は野球漬けで、泥まみれのユニフォームが誇らしかった。大人になってからは音楽や読書、釣りやカメラにもハマった。でも、いつからかそれらに触れる時間が減っていき、今では道具すら押し入れの奥に眠っている。あの頃の「今日は何をしようか」と考える楽しさは、どこへ行ってしまったんだろう。
週末はバットを振っていた頃の自分
今思えば、週末にバットを握ることがストレス解消にもなっていた。仕事に追われるようになってからは「疲れてるから」と理由をつけてグラウンドにすら足を運ばなくなった。でも、本当は体がきついからじゃなくて、気持ちが負けていたのかもしれない。ユニフォームの匂い、仲間の声、汗のにじむ感覚。それらを思い出すたびに、心の奥がちくりと痛む。
草野球仲間との時間が癒しだった
グラウンドの端で缶コーヒーを飲みながら、他愛もない話をする時間が好きだった。家庭の話や仕事の愚痴、恋愛相談まで、男たちが少年のような顔で語り合っていた。勝ち負けなんてどうでもよくて、その場にいること自体が“趣味”だったんだと思う。あの空気を思い出すたびに、「戻りたい」と思う自分がいる。でも、もう誘われなくなった。
今はただの作業と惰性に追われる日々
朝起きて、メールを確認して、登記の書類とにらめっこして、終われば夕方。気がつけば「今日は何してたっけ?」と感じる日が増えてきた。ただ“こなす”ことが日常になってしまっている。趣味を楽しむ心の余白が、どこにも残っていない。これは働きすぎの証か、それとも自分が趣味を軽んじてきた結果なのか。どちらにしても、心が動かなくなっているのは事実だ。
趣味を探すことすら億劫になっている
「新しい趣味を見つけよう」と意気込んでみても、結局スマホで検索するだけで終わってしまう。「どうせ続かない」「時間がない」「道具揃えるの面倒」――言い訳が口をついて出るようになって久しい。そんな自分を見て、「なんだかなあ」と思うけれど、じゃあどうするかというと、何もできずに夜が更ける。
やる気のなさと疲労感の正体
きっと、趣味に手が伸びない理由は“疲れている”からなんだろう。ただしそれは、肉体的な疲れじゃない。精神的な、何かを始める気力そのものが摩耗しているような感覚。楽しむにはエネルギーが必要で、そのエネルギーが枯渇している。心が疲れていると、楽しいはずのことにも手が伸びないという事実を、最近ようやく受け入れ始めた。
なぜ趣味が続かなくなったのか
継続することが“義務”に変わったとき、人は趣味を辞める。やらなきゃと思った瞬間、それはもう趣味ではなくなる。仕事も同じだけど、趣味はもっと自由でいいはずなのに、なぜか「有意義でなければならない」と自分で縛ってしまっていた。そこに気づいたとき、少し肩の力が抜けた。
忙しさにすべてを奪われている実感
日々の業務に追われていると、どうしても“趣味”は後回しになる。特に司法書士という職業柄、突発的な案件や急ぎの対応も多く、予定を立てるのが難しい。「今週末は空いてるな」と思っても、気がつけば帳簿とにらめっこしていたり、役所と連絡を取っていたりする。こうして、また趣味に触れる時間は削られていく。
仕事に押し流される時間と心の余裕
実務は嫌いじゃない。けれど、事務所を経営している以上、事務処理だけでなく売上管理や人事対応もある。事務員のフォローも忘れてはいけない。そんな状況では、趣味どころか自分の感情に目を向ける時間さえない。余裕があるようで、実は心の中はいつも何かに押されている。だから、趣味が減ったのは単なる“時間”の問題ではないのだ。
ひとり事務所だからこその責任の重さ
誰かに仕事を振れれば、もう少し楽になるのかもしれない。でも、責任を持つのは自分だし、最終的に名前を出すのも自分だ。だからどうしても、手を抜けない。そんな毎日の積み重ねで、気がつけば「趣味をやる余裕」よりも「失敗しないための準備」のほうに意識が向いていた。趣味が減った理由のひとつに、自分自身の性格もある気がしている。
心のどこかでこんなことしていていいのかと思ってしまう
たまに何か新しいことを始めようとしても、「こんなことしてていいのか」と自問してしまう。自分だけ遊んでいるような気がして、罪悪感すら覚える。これが年齢によるものなのか、環境のせいなのか、自分の思考のクセなのか、答えは出ないけれど、少なくともそれが“趣味”を遠ざけているのは間違いない。
それでも心が動いた瞬間を思い出す
そんな中でも、ごくたまに「おっ」と心が動くことがある。それはほんの些細な瞬間。テレビで流れていた音楽、SNSで見かけた写真、昔使っていた道具がふと視界に入ったとき。そんなとき、自分にもまだ“好きなこと”があるんだと少し救われた気持ちになる。完全に趣味を失ったわけではない。ただ、今はそれが“眠っている”だけなのだ。
たまたま観た映画が胸に刺さった日
先日、事務員が貸してくれたDVDを何気なく観た。普段は映画なんて観ないのに、なぜかその日は観る気になった。内容は平凡な人生ドラマ。でも、不思議と心に残った。自分の人生に重なる部分があって、観終わった後に妙な余韻が残った。「たまにはこういうのもいいな」と思えたのが、何よりの収穫だった。
事務員とのたわいない会話がきっかけだった
この映画を観たのも、たまたま事務員とした雑談がきっかけだった。「先生、最近何か楽しいことあります?」と聞かれて、「ないなあ」と返した数日後、「これ、好きかもしれませんよ」と手渡された。何気ない言葉ややり取りが、自分の心に何かを呼び起こすことがある。趣味とは、意外とそんな小さな刺激から芽生えるのかもしれない。
趣味とは上手くなることじゃなくて好きでいること
結局のところ、趣味は上達を競うものでも、他人に見せるものでもない。下手でも、飽きっぽくても、続かなくてもいい。ただ、「ちょっと好きかも」と思えれば、それがもう趣味なのだと思う。今の自分に必要なのは、“楽しむことに遠慮しない”気持ちなのかもしれない。仕事も大事。でも、心を養う時間も同じくらい大切だと、今さらながら思うようになった。
成果主義から抜け出すという小さな挑戦
つい結果を求めてしまう癖がある。でも、趣味においてはそれが逆効果だと感じるようになった。誰かと比べる必要なんてないし、評価されることを期待しなくてもいい。むしろ、自分の心が動いたかどうかがすべて。そんな当たり前のことを忘れていた。だから、もう少しだけゆるく、自分の気持ちに正直に生きていきたい。
下手でも続けていいと思えたこと
久しぶりにギターを引っ張り出してみた。全然指が動かない。でも、それでもいいと思えた。昔のようには弾けないけれど、音が出るだけでなんだか嬉しかった。下手でも、続けてもいいんだ。そう思えた瞬間、自分の中に少しだけ光が差した気がした。趣味が減った気がしていたけれど、消えたわけじゃなかった。今はまた、静かに種をまく時期なのかもしれない。