孤独を煮詰めたらこうなった日々

孤独を煮詰めたらこうなった日々

孤独をこじらせた自覚はいつからか

気づけば誰かと雑談することも減り、日々の会話が「この書類、どこに出すんでしたっけ?」で終わるようになっていた。もちろん仕事のやりとりはある。けれど、それはあくまで「業務」だ。人としての会話、たとえば「今日寒いですね」とか「最近元気ですか」なんてやりとりをしなくなって久しい。孤独をこじらせている——そんな自覚がある自分が、ふと怖くなることもある。

気づけば誰にも会わない日々が普通に

コロナ禍の影響もあったのかもしれない。あの頃、外出の機会は減り、飲み会は消え、誰かと顔を合わせる理由すらなくなった。そこにきて、地方の司法書士という仕事。基本的に外回りも少なく、事務所にこもって作業することが多い。自分から人に会いに行かなければ、誰にも会わないで1日が終わる。最初は楽だった。でも気づいたら、それが「当たり前」になっていた。

話し相手は事務員さんとお客さんだけ

うちの事務所にはひとり、事務員さんがいる。彼女とは最低限の業務連絡はあるけれど、それ以上を求めるのは失礼だと思っている。仕事での線引きは大切だ。でも、そうやって遠慮しているうちに、自分が人とどんな風に雑談していたのかも忘れてきた。お客さんとのやりとりはあるけれど、それも「相談」や「依頼」であって、「会話」ではない。まるで、世界とガラス越しに話している気分になる。

LINEの通知音が鳴るだけでビクッとする

スマホが鳴ると、なぜかビクッとする。誰かから連絡が来ることが珍しくなりすぎて、通知音すらも非日常。昔は毎晩のようにLINEしてたなぁと思い出して、ちょっと恥ずかしくなったりもする。いまや通知はクレジットカードの利用報告か、楽天からのセールのお知らせだけ。その事実に笑うしかなくなる。たまに友人から連絡があると、妙に構えて返信が遅れてしまう自分がいる。

司法書士という仕事の性質と孤独

司法書士という職業は、ある意味で「一匹狼」が成り立つ仕事だ。ひとりで考えて、ひとりで処理して、ひとりで責任を取る。それが好きでこの道に入ったつもりだった。けれど、人はやっぱり、完全にはひとりで生きていけないものなのかもしれない。仕事が終わっても誰にも話す相手がいない。そういう夜が、だんだん増えてきた。

人の話は聞くけれど、自分のことは誰にも話さない

仕事柄、人の悩みや不安を聞くことが多い。登記のこと、相続のこと、借金のこと。真剣な話を受け止める立場として、自分の感情はなるべく脇に置いてきた。でも、聞くばかりで話すことを忘れていた気がする。気づけば「自分の話をする相手」がいない。そして話す力も失っていた。誰かに自分のことを打ち明けるって、こんなにも勇気がいることだったっけ?

相談に乗る側としての限界

司法書士として、ずっと「頼られる側」でいようと無理をしていたのかもしれない。愚痴も弱音も、本当はたまには言いたい。でも、肩書きが邪魔をする。「先生」って呼ばれるけど、その実、ただの寂しがりのアラフォー男だ。だからこそ、誰かに助けを求めることができなくなっていた。責任感と孤独は、思ったより相性がいい。

「先生」と呼ばれても中身はただの寂しがり屋

たとえばコンビニで「温めますか?」と聞かれただけで、やけに心がじんとしたことがある。そのくらい、誰かと接することに飢えていたんだと思う。「先生」と呼ばれて偉そうにしてても、家に帰れば誰もいない。晩飯はカップ麺。風呂はため息交じり。そしてスマホの連絡帳は、めったに光らない。たまには誰かに「おつかれさま」って言ってもらいたい。ただそれだけ。

元野球部だったころのにぎやかさとの落差

高校時代、野球部だった自分には常に仲間がいた。練習後のくだらない話、バスでの移動時間、監督の愚痴で盛り上がった夜。あの頃はうるさいくらいに人に囲まれていた。今の静けさが嫌いなわけじゃないけど、時々、あの雑音が恋しくなる。にぎやかだった日々が、今ではまるで映画のワンシーンのようだ。

ベンチの声援が恋しくなる瞬間

一人で仕事してると、ミスしても誰も責めてこない。逆に、うまくいっても誰も褒めてくれない。野球部のときは、たとえ補欠でも「ナイス声出し!」なんて言ってもらえた。あの小さな賞賛が、どれだけ支えになっていたか。今は誰かに声援を送ることはあっても、自分がもらう側になることはない。ベンチの声援が、やけに遠く感じる。

団体行動が苦手だったわけじゃない

たしかに一人が気楽だと思って、今の仕事を選んだ。でも、団体行動が苦手だったわけじゃない。むしろ、人と過ごす時間は嫌いじゃなかった。ただ、大人になるにつれて「気を遣う関係」ばかりが増えて、本音を出せる相手が減っていった。それで徐々に、気楽なひとりを選ぶようになった。でもそれは「好きだから」ではなく「そうせざるを得なかった」だけなのかもしれない。

これからのつながり方を考える

孤独を否定するわけじゃない。むしろ、孤独と上手につきあう方法を模索している。誰かとべったりの関係も疲れるけど、誰とも関わらない生活もどこか味気ない。たった一通のメッセージ、一杯のコーヒー、ふとした挨拶。それだけで、心がほどけることもある。無理に「社交的」になる必要はないけれど、小さな関わりを持つことは、これからもっと意識していきたいと思っている。

無理に社交的にならなくていい

自分を変えようと無理することはない。社交的でなくても、友達が多くなくても、悪いわけじゃない。けれど、ほんの少しだけ「自分から声をかける」勇気を持てたら、世界はもう少し優しく見えるかもしれない。たとえば近所の定食屋で「いつものお願いします」と言うだけでも、誰かとつながっている実感がある。小さな一歩を、焦らず踏み出したい。

一通の手紙、一杯のコーヒーでも

孤独を埋める方法は、大げさなことじゃなくていい。誰かに手紙を書く、誰かにお土産を渡す、そんな些細なことで心が救われる。昔の友人に「元気?」とLINEを送るだけでもいい。今さら照れくさい、なんて思わなくていい。相手もきっと、同じように誰かを求めているのかもしれないから。孤独を煮詰めた先に見える景色が、少しでもやわらかくなることを願っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓