気づけば独り身のまま時間が過ぎていた
日々の業務に追われているうちに、気づけば45歳。気がついたら、周りの友人たちは家族を持ち、子どもの成長の話をしている。自分だけがぽっかり取り残されたような感覚になることがある。忙しい毎日が孤独を忘れさせてくれる一方で、ふとした瞬間に「このままで本当に大丈夫か」と心が揺れる夜がある。
仕事に追われていたら40代半ばになっていた
開業した頃は、とにかくがむしゃらだった。地域の案件も多く、少人数でまわしているから一人ひとりの負担も大きい。独立した直後は「結婚なんて落ち着いてからでいい」と思っていた。でも、落ち着く暇など一度も訪れなかった。そうこうしているうちに、40代も半ばを過ぎてしまったのだ。
同級生の家族の話に入れなくなった自分
久しぶりに集まった中学の同窓会。同級生たちは当たり前のように「子どもが高校受験でさ」とか「妻が最近更年期でな…」なんて話をしていた。笑って相槌を打ちながらも、自分の中にあるぽっかりと空いた隙間に気づいてしまう。共通の話題が減っていくことで、疎外感がじわじわと忍び寄ってくる。
「結婚はしないの?」という言葉がもう痛くない理由
昔は親戚の集まりで「まだ結婚しないの?」と聞かれるたびにイラッとした。でも最近は、そういう質問すらされなくなった。期待されていないのか、諦められたのか、それすらわからない。ただ、その静けさが少しだけ寂しい。そして自分自身も「誰かと暮らす未来」を思い描くことが、どんどん現実味を失っていく。
将来への漠然とした不安が夜中にやってくる
日中は仕事に集中しているから忘れていられる。でも、夜中に目が覚めてしまったとき、天井を見つめながら「このままずっと一人だったらどうなるんだろう」と考えてしまう。周囲には頼れる人がいないわけではない。でも、「誰かに迷惑をかけたくない」という思いが、余計に孤独感を強めてしまう。
健康不安と孤独のダブルパンチ
健康診断で再検査になったとき、最初に浮かんだのは「この先どうする?」だった。もし入院や手術になったら、手続きは誰に頼めばいいのか。身内と疎遠で、結婚もしていない。仕事を続けるのも難しくなるかもしれない。孤独な将来像が、健康の不安と相まって、冷たい現実として押し寄せてきた。
もし倒れたら…誰が気づいてくれるのか
朝、事務所に出勤して電気をつける。それが自分の存在証明のように思える日がある。万が一、自宅で倒れても、誰にも気づかれないかもしれない。そんな不安が、笑い話では済まなくなってきた。事務員さんがいる日はまだいいが、一人で過ごす休日などは、連絡が途絶えても不思議がられない現実がある。
年金と貯金と、頼れる人のいない現実
老後資金の話題を耳にするたび、耳が痛くなる。年金だけで暮らしていける気がしないし、貯金だってそんなにあるわけじゃない。介護施設に入るとしても、保証人が必要になるらしい。誰が引き受けてくれるのか…まるで自分が社会から孤立していくプロセスを黙って見せられている気分になる。
独り身で老後を迎える覚悟があるのか
「このまま一人で生きていく」と腹をくくることができれば、少しは楽なのかもしれない。でも、覚悟というのはそう簡単にできるものではない。かすかに残る希望や未練が、完全な吹っ切れを邪魔してくる。覚悟と諦めの間で、ゆらゆらと揺れる日々が続く。
おひとりさまを肯定できる日は来るのか
「おひとりさまライフ」という言葉があるが、それを本気で楽しめるのは、ある程度の経済的余裕と精神的な強さがある人だけだと思う。自分はまだその域には達していない。楽しもうとしても、どこか虚しさが先に立ってしまう。肯定するにはまだ、自分を納得させきれない部分が多すぎる。
「寂しいけど自由」ってほんと?
確かに一人は気楽だ。誰にも干渉されないし、好きな時間に好きなことができる。でも、その自由の代償は「寂しさ」だ。テレビをつけっぱなしにして、なんとか気を紛らわせる夜。ふと静寂が戻ってくると、その自由すらも虚しく感じる。「自由」と「孤独」は、表裏一体なのかもしれない。
最期をどう迎えるかを考え始めたら
ある日、新聞で「身寄りのない人の葬儀代が問題になっている」という記事を読んだ。他人事ではなかった。自分が死んだ後、誰が火葬してくれるのか、誰が遺品を片付けるのか…。終わり方すら自分で準備しなければならない現実が、心にずっしりとのしかかってきた。
それでも日常は淡々と続いていく
どれだけ不安を抱えていても、朝は来るし、仕事もある。日常があることに感謝すべきなのかもしれない。少なくとも、何かに没頭できる時間があるというのは、救いでもある。ほんの少しの充実感が、不安を小さくしてくれることもある。
朝、事務所の電気をつける小さな安心感
朝、事務所のシャッターを開けて、電気をつける。その瞬間、なぜか少し安心する。今日も自分はここにいる、役割があると実感できる瞬間だ。誰かのために何かができる。それが、どれだけ自分を支えてくれているか、ようやく気づき始めた気がする。
事務員との何気ない会話が救いになることも
たった一人の事務員との何気ない会話。業務報告の中のちょっとした笑い。誰かがそこにいてくれるだけで、気持ちが違う。気を遣いすぎない関係だからこそ、心がほぐれることもある。人と関わることの価値を、年齢を重ねるほどに実感している。
愚痴をこぼせる相手がいるありがたさ
完璧な理解者じゃなくてもいい。ただ、話を聞いてくれる誰かがいる。それだけで、不安はずいぶん軽くなる。「疲れた」と言える場所、「わかるよ」と返してもらえる関係。それが、人生を前に進めるエネルギーになっている。孤独に見える日々の中にも、実は小さなつながりがあって救われているのかもしれない。