カフェで交わされる恋の話にうなずくだけの午後
午後のカフェ、アイスコーヒーの氷がカランと鳴るたびに、依頼人の恋バナが一段と熱を帯びていく。僕はその話にただうなずくばかり。うなずくのが仕事みたいになっているこの頃、自分の存在が少しずつ透明になっていくような気がする。彼女の語る恋の駆け引き、LINEの文面の裏読み、付き合うか付き合わないかの境界線。どれも僕には縁のない世界で、まるでドラマの脚本を読んでいる気分だった。
依頼人との距離感が心にしみる瞬間
法的な相談で始まった面談が、いつの間にか人生相談に変わるのはよくあること。けれど今回はそれが“恋バナ”だったというのが少しこたえた。僕は45歳、独身、モテない男。事務所では事務員一人と最低限のやりとり。そんな僕にとって、恋愛の話題は異国のニュースのようで、心のどこかがザラつく。彼女との距離は「依頼人と司法書士」という線でしか引けないが、それ以上に“人間としての経験値の差”を感じた。
恋バナは盛り上がるけど自分は蚊帳の外
「先生って、今恋してます?」と聞かれたとき、ちょっと笑ってごまかした。本当は、そんな感情を最後に持ったのがいつだったかも覚えていない。彼女の話は、彼の優しさ、タイミング、デートの場所まで細かくて、僕はただ相槌を打つだけ。盛り上がってるのに、僕だけが観客のようだった。恋の臨場感を共有できないって、こんなに心が冷えるものかと知った。
「先生はどうなんですか?」という地雷
「先生はどうなんですか?」と無邪気に投げかけられる質問ほど、答えに困るものはない。沈黙が少しだけ流れたあと、「仕事ばっかりでね」と言ってみたけれど、それは言い訳でしかなかった。本当は、恋をする余裕も、情熱も、もはや残っていないのかもしれない。そんな自分に気づいて、カフェのコースターを指でなぞる手が止まらなかった。
聞き役に徹することの孤独
仕事柄、聞き役にまわることは慣れている。相手の事情を汲み取り、言葉を選びながら対応する。でも、私生活でまでそのスキルを発動する羽目になるとは思わなかった。人の話を親身に聞くって、実はかなり消耗する行為なのだ。ましてそれが恋バナで、自分が何も持っていないと気づいているときは、余計に。
相づちを打ちながら自分の感情をしまいこむ
「あー、なるほど」「それは大変でしたね」なんて言いながら、頭の中では「自分はいつから恋の話をする側じゃなくなったんだろう」と考えていた。話を聞いているふりをしながら、自分の感情をどこかに押し込める。そうやって役に徹する自分を、少し哀れにも思えた。相づちは習慣だけど、心の中はずっと“空欄”のままだ。
専門職の顔の裏で崩れるプライベート
「先生って、冷静ですね」と言われるたびに、うまく隠せてるなと自分でも感心する。でも実際は、崩れてる。専門職としての顔の下にある、プライベートはぐちゃぐちゃだ。休みの日に誰かと出かける予定もなく、LINEの履歴は依頼人ばかり。僕の人生は“業務連絡”で埋め尽くされている。誰にも見せない部分で、静かに孤独が積もっていく。
「うらやましいですね」が口癖になった理由
最近、「うらやましいですね」ってよく言うようになった。依頼人の誰かが婚約したとか、恋人と旅行に行く話を聞いたときの、決まり文句みたいに。それが本心かどうか、もうわからない。ただ、相手に共感しているように見せかけるための、空っぽな言葉。そう言いながら、自分の心の中には何も残っていないのを、じわじわ感じている。
恋の話題で埋まるカフェの空間と自分の空白
恋愛話って、聞いてるとなんとなく幸せな空気に包まれる。でも、自分の内側がそれに共鳴しないとき、まるで映画をスクリーン越しに見てるような気分になる。カフェの隅っこで、笑いながら話す依頼人を前に、僕の存在だけが薄くなっていく。恋愛経験がないわけじゃない。けれど“現在進行形”の物語がない。そこに、ただの事実以上の虚しさがある。
帰りの車の中でやってくる遅い虚無感
面談が終わり、車に戻ると急に静けさが戻る。カフェのざわめき、依頼人の笑顔、恋の話。全部が急に遠ざかって、僕だけが取り残される感じ。信号待ちの間、ハンドルを握る手に意識が向かなくなって、ただ遠くをぼんやり見る。日が沈む景色がやけに切なく感じて、「うらやましい」って、誰に言ってるんだろうって思う。
「俺には関係ない」と言い聞かせても
「まあ、俺には関係ないし」そう言えば気が楽になると思っていた。でも何度繰り返しても、関係のなさを突きつけられるだけだった。誰かを想って過ごす時間、自分のために誰かが動いてくれる瞬間、そういうのがもう起こらない人生だとしたら──。ちょっと笑えて、ちょっと泣ける。そんな気持ちを抱えたまま、次の依頼人を迎える準備をする。
本当は誰かと話したいのは自分かもしれない
話を聞くのは得意。でも、話を聞いてほしいときは、誰に頼ればいいのかわからない。事務員に愚痴を言うのも気が引けるし、友人に連絡するのも億劫だ。だから、誰かの話を聞いてる方が楽なのかもしれない。でも、たまには自分のことも聞いてほしい。自分が“いない”話題の連続に、だんだん耐性がなくなってきた。
優しさの裏にある寂しさという名の欠片
優しくするって、実はすごくエネルギーが要る。しかもそれを“職業的な顔”で続けていると、どこかで心が乾いてくる。誰かの話に耳を傾けるたび、自分の中にある“聞いてほしい思い”が固まっていく気がする。優しさを与えるばかりじゃ、いつか枯れてしまうんじゃないか。そんな欠片みたいな不安が、今日も心の片隅に居座っている。
愚痴を聞くばかりで吐き出せない日々
愚痴はよく聞く。でも、自分の愚痴を誰かに話した記憶はほとんどない。司法書士って、“しっかり者”のイメージが強いから、弱音を吐くとがっかりされそうで。だから、いつも笑って受け止める側に徹してしまう。でも本当は、誰かに言いたいことなんて山ほどある。最近は、自分が“愚痴のゴミ箱”になっていくような気がしてならない。