朝起きて鏡を見るのが嫌だった
毎朝、洗面台の前に立つたびに、なんともいえない気持ちになる。寝癖とか、顔色の悪さとか、そんな外見的な話ではなく、もっと根の深いところ。鏡の中の自分と目が合うたび、「お前、また今日もやるのか?」と問いかけられているような、責められているような気分になる。誰もそんなこと思っていないのはわかっている。でも、そう思ってしまう自分がいる。そんな毎日の始まりが、もうしんどかった。
髪が乱れているとかそういう話ではなく
よく「身だしなみを整えると気持ちもシャキッとする」なんて言うけれど、そもそも整える気すら湧かない日も多かった。自分に手間をかけることが無意味に思えるのだ。「どうせ俺なんか」と、つい心の中で言ってしまう癖は、二十代の頃から変わらない。ネクタイを締める手も重たいし、スーツに袖を通しても気合いは入らない。身支度をしても「自分を偽ってるだけじゃないか」と思ってしまうのが常だった。
毎朝の顔が自分の敵だった
そんな僕の習慣は、洗顔もそこそこにタオルで顔を覆うこと。鏡をちゃんと見ることはほとんどなかった。もちろん外に出るから髭は剃るけれど、それ以上は最低限で済ませていた。自分をじっと見つめることができないまま、大人になった。きっと「嫌い」という感情すら越えて、「見たくないもの」として自分自身が認識されていたのだと思う。誰かに見られるのが嫌なのではなく、自分で自分を見られないという感覚。
誰も気づかないけど自分だけが知っている「欠点」
耳の形、眉の角度、笑ったときの口元。人からすれば些細なことでも、自分にとっては絶対に許せない部分がある。昔から「もっとこうだったら」「他人みたいな顔になれたら」と思ってばかりだった。努力では変えられない部分にばかり意識が向き、それがどんどん自信を削っていった。思春期で終わるかと思った自己否定は、大人になってもずっと居座り続けた。
自信がないまま社会に出た
司法書士として開業してからも、自信なんてものは持ち合わせていなかった。ただ「仕事だからやるしかない」という気持ちで、毎日をこなしてきた。そんな僕がなぜか周りからは「しっかりしてそう」と思われていたらしい。皮肉な話だ。中身はボロボロで、常に「これでいいのか?」という疑問を抱えながら机に向かっていた。大人になっても、不安や迷いは子どもの頃と何も変わっていなかった。
司法書士という肩書に逃げたのかもしれない
「国家資格持ってるならすごいね」と言われるたび、どこか心がザラついた。自分ではすごいと思えないし、自分が価値のある人間だとも思えない。でも「司法書士です」と名乗ると、なぜか一目置かれる。それにすがるようになっていた気がする。肩書は自分を守る鎧であり、同時に見せかけの仮面でもあった。中身を見られたら終わる。そう思って、いつもビクビクしていた。
資格があることで自分を守りたかった
他人の期待や信頼を裏切らないように必死だった。でも実際は、自分自身を裏切らないようにするので精一杯だった。「このくらいやって当然でしょ」と思われるのが怖かった。ミスができない、情けない姿を見せられない。だからどんどん無理をして、疲弊していった。自信のない人間が「完璧に見せよう」とすると、本当にしんどい。
「立派そう」に見られることでやっと自分を保ってた
お客様から「頼りにしてます」と言われたとき、本当にうれしいはずなのに、心のどこかで「いや、そんなことないです」と反射的に思ってしまう。感謝や信頼の言葉を素直に受け取れない。それが自分の悪いクセだとわかっていても、直せない。自信がない人間は、人からの好意ですら疑ってしまうのだ。
人に褒められても素直に受け取れない
ありがたい言葉をもらっても、「いやいや、それは…」とすぐに否定したくなる。そんな自分に気づいて、「またやってしまった」と落ち込む。人との距離を保とうとすればするほど、どんどん孤独になっていった。事務所には事務員さんが一人いてくれて、助けられているはずなのに、心の壁はなかなか取り払えなかった。
「でも本当は…」という否定が先に出る
「先生って優しいですね」と言われたときに、「いや、そんなことないです」と返す。それは謙遜でも美徳でもなく、ただの自己否定だと最近ようやく気づいた。褒め言葉を受け止められないのは、自分のことを信じていないから。心のどこかで「自分なんかが褒められるわけない」と思っている。だから、どんなに努力しても報われた気がしない。
事務員さんにも時々迷惑をかけている
些細なことでも過剰に反応してしまったり、不安で何度も確認してしまったり。そんな自分に対して、「すみません、面倒くさいですよね」と言いたくなる。でも、そう思ってるのは自分だけかもしれない。もしかしたら、ちゃんと支えてくれているのかもしれない。でも、信じきれない。ありがとうを素直に言うことすら、時には難しい。
元野球部の意地が今もどこかに残ってる
高校時代、野球部だった自分は「努力すれば何とかなる」と信じていた。監督にもよく怒鳴られていたが、頑張ることだけはやめなかった。その時の根性が、今でもどこかに残っている。自信がなくても、やるしかない。誰にも負けたくない。その気持ちが、今の仕事にもつながっているのかもしれない。
がむしゃらにやることで自己否定をごまかしていた
結局、自分を見つめ直すよりも、目の前の仕事に没頭していた方が楽だった。次から次へと処理をこなしているうちに、自己否定の声も聞こえにくくなる。忙しさが麻酔になる。でも、夜になるとその麻酔が切れて、「俺は何をやってるんだ」と急に虚しくなる。そんな日々の繰り返しだった。
「気合い」で乗り切れるのは若いうちだけ
四十を過ぎてから、さすがに無理が効かなくなってきた。体も気力も、昔のようにはいかない。気合いで乗り越えるには限界がある。だからこそ、今、自分と向き合わなければならない時期なのだと感じている。無理して作った“立派な自分”じゃなく、等身大の自分を少しでも受け入れたいと思い始めた。
それでも少しだけ変わってきた
自分を嫌ってきたけど、そんな自分だからこそ、人の気持ちに敏感でいられるのかもしれない。誰かが不安そうにしていたらすぐに気づくし、「大丈夫ですよ」と声をかけることもある。自分が苦しんできたからこそ、人に優しくできるようになった部分もある。それはたぶん、ちょっとした“好きになれそうな自分”の一面かもしれない。
誰かの悩みに寄り添えるようになったのは、自分の弱さのおかげかもしれない
相談に来られる方の中には、明るく振る舞っていても、内面では不安や迷いを抱えている人も多い。そういう方の話を聞いていると、「わかります」と心から言えることがある。自分が抱えてきたものが、誰かに共感する力になっているとしたら、無駄ではなかったのかもしれない。
嫌いな自分も、誰かの役に立つことがある
完璧じゃない自分でも、誰かの力になれる。そう気づけたことで、ほんの少しだけ、自分に優しくなれた気がする。全部を好きになるのは難しいかもしれない。でも、ちょっとだけ許してみる。そんなところから、もう一度始めてみようと思っている。