忙しいフリが上手くなった日
この日も、例によって午前九時の来客に間に合うよう、僕はいつも通りコーヒーを淹れていた。カップの底に溜まったドロのような疲労感をかき混ぜながら、事務員のサトウさんが書類をパタンと机に置く。
「先生、今日の登記三件、書類はこちらです。あと、お客様が一人“相談だけ”とのことです」
“相談だけ”ほど危険な言葉はない。手間は倍、報酬はゼロ。まるでワカメが磯野家で意味なく走り回ってるあの感じだ。
机の上は戦場でも心は無風状態
タスクは次々処理される
印鑑証明の有効期限をチェックし、委任状に目を通し、電話を二本捌きながら法務局へのオンライン申請を終える。PCは唸ってる。プリンタも叫んでる。
感情だけ取り残されたまま
しかし、心はどこか遠くにいる。真夜中のグラウンドでひとり素振りしているような、誰にも見られない練習試合みたいな感覚。何のために打っているのかも、忘れかけていた。
サトウさんに見透かされた沈黙
「先生また心ここにあらずですね」
書類を渡されたとき、サトウさんがぽつりとつぶやいた。
「忙しそうにしてるけど、心は暇そうです」
そのセリフ、カツオあたりがサザエさんに言ってるのを聞いたことがある。彼女は相変わらず鋭い。鋭すぎて逆にこっちはケガしそうだ。
本当に必要なことから逃げている気がする
電車の中で泣いてる人みたいな自分
この仕事、好きなはずだった。誰かの役に立っているはずだった。でも、何かが欠けている。たとえば、目的とか、充実感とか、たとえば…誰かと笑う時間とか。
頼られても満たされない夜
今日も誰かの登記は終わった
依頼人が帰ったあと、静かな事務所にひとり残される。テーブルの上に残るお茶菓子。飲まれなかった二杯目の緑茶。誰もいない応接室。
やれやれ、、、今日も忙しいフリだけは完璧だった。
探偵もののような違和感
そして事件は起きた
夕方、電話が鳴った。相続登記の件で、ひとつの戸籍が足りないという話だった。提出された戸籍謄本の一部が、微妙に改ざんされていた。
「先生、これ……偽造です」
サトウさんが静かに言った。
まるで金田一耕助が「この中に犯人がいます」と言い出す直前の空気だった。突然、張り詰める空気。忙しさでは誤魔化せない「本当の事件」が、そこにあった。
忙しいフリは嘘を見抜けない
見過ごしていた違和感
よく見れば、戸籍の印字が微妙ににじんでいる。印影も薄い。心が暇じゃなければ、すぐに気づけたはずだった。忙しさにかまけて、目も心も曇っていた。
心のスイッチを入れ直す
ちゃんと仕事するってこういうこと
僕は、司法書士だ。書類を捌くだけの存在じゃない。人の人生に関わる仕事をしている。だからこそ、目の前の“ちょっとした違和感”を見逃してはいけなかった。
そして夜が明ける
心は少しだけ動き出した
報告書をまとめ、戸籍偽造の可能性を依頼人に丁寧に説明した。サトウさんは無言でうなずいていた。
そのとき、少しだけ心が忙しくなった。意味のある“忙しさ”だった。
エピローグ
そしてまた日常へ
翌朝、サトウさんが言った。
「先生、今日は心も忙しいですか?」
「…まあな」
僕はコーヒーを一口すする。
やれやれ、、、今日も一日、ちゃんと働こう。