この仕事に向いてるのか答えが出ないまま働いている
朝から違和感が止まらない
依頼の内容に感じた微妙な引っかかり
「この名義変更、ちょっと気になるんですけど……」
サトウさんが朝イチで持ってきた案件は、相続登記の依頼だった。依頼人は市内の古い町工場を営んでいた初老の男性。提出書類は一見、何の変哲もない。けれど、何かがおかしい。引っかかる。だが、何が?そこがわからない。
机の上の書類がやけに重たく感じた日
書類に目を通すたび、気分が沈む。というより、ずっしり重たい。昔、キャッチャーだった頃のミットとボールを思い出した。重さは同じでも、受け止める気力が違う。あの頃は真っ直ぐな球にだけ向き合っていればよかった。
サトウさんの一言が心に刺さる
「先生、顔に“向いてない”って書いてありますよ?」
「……そんなもん、書いてあったら困るわ」
口ではそう返したが、図星だった。サトウさんはそういうところだけ鋭い。言い返せない。
誰かのためにやってるはずなのに
依頼人の顔を思い浮かべる。亡くなった兄の名義をどうしても早く変更したいという。普通なら納得する事情だ。でも、それにしては急ぎすぎている気がした。まるで、誰かに追われているような。
ふと浮かんだ昔の自分
野球部時代のあの夏
炎天下のグラウンド。誰よりも声を出して、誰よりも泥だらけで、でもレギュラーにはなれなかった。「向いてないな」と何度も思った。でも、誰よりも長くキャッチャーの道具を磨いていた。……あれ、今と似てるか?
向いてることと勝てることは違う
「試合に出られること」と「好きなこと」は違う。勝てるから向いてる、というわけじゃない。だけど、この仕事は——勝ち負けなんてないはずだ。それでも、負けてる気がするのはなぜだ。
キャッチャーミットと登記簿の重み
キャッチャーミットは相手の球を受け止めるもの。登記簿は依頼人の人生を受け止めるもの。……そう考えると、どちらもたいして変わらない気がした。受け止める覚悟がなきゃできない仕事だ。
辞めたいと思った最初の瞬間
あれは、最初にサインミスで法務局に呼び出された日。窓口の職員の冷たい目。あの時からずっと、辞めたい気持ちは心の片隅に残っている。誰かに褒められたわけでも、感謝されたわけでもない。
依頼人が残した奇妙な言葉
あの登記簿に何かがある
ふと、書類の中の一通の固定資産評価証明書に目が留まる。印刷がにじんでいて読みにくい。が、日付が違う。亡くなった日より後になっている。
「……この証明書、偽造の可能性がありますね」
サトウさんの声が冷静すぎて、逆に背筋がぞっとした。
なぜ住所欄が塗りつぶされていたのか
よく見ると、登記簿の一部が修正テープで訂正された痕跡がある。登記簿原本にはそんなもの使えない。つまり、コピーに細工して、別の人の住所を書き換えていたということか。
申請書の日付が3年前
日付もずれている。実際の相続発生は今年だが、申請書の日付は3年前。つまり、今回の依頼は——不正登記。名義を偽って、他人の土地を自分のものにしようとしている?
サトウさんの調査報告
「件の土地、実は隣接する空き地とつなげて開発予定らしいです。依頼人、たぶん転売で一儲けしようとしてますよ」
なるほど、急ぎすぎる理由がようやく腑に落ちた。だが、それは司法書士が荷担していいものではない。
もしかして俺が見落としていたもの
ひとり事務所で考える夜
夜。サトウさんは帰り、事務所には俺だけ。電気の下で、書類とにらめっこしている自分がいる。
「……やれやれ、、、またこんな時間か」
溜息と一緒に、自分がこの仕事に“向いてる”かどうかを考える。でも、結局答えは出ない。
自分がこの仕事に向いてるかよりも
この仕事が自分に向いてるかどうかは、結局いつも“後回し”だ。それより、やるべきことがいつも目の前にある。そしてそれは、たいてい誰かのための仕事だ。
誰かの役に立っているかどうか
今回、もし見逃していたら、不正登記が成立していたかもしれない。そう思うと、少しだけ、今日の自分を褒めてやってもいい気がした。
正解は出ない でも選び続ける
向いてるかどうかの答えは出ない。でも、やるかやらないかの判断だけは、今日も自分でしている。その積み重ねの先にしか、答えなんてないのかもしれない。
エピローグ
翌朝、事務所に入るとサトウさんが呆れた顔で言った。
「先生、寝ぐせひどいですよ。鏡、見てきたらどうです?」
「見たよ。……でも、司法書士に向いてる顔かどうかはわからなかったな」
そう言って笑う俺を見て、サトウさんも少しだけ笑った。そんな日常が、意外と悪くないと感じている自分がいるのが、少しだけ腹立たしい。