鍋の音が呼ぶ昼下がり
湯気の向こうの違和感
商店街のはずれにある古いうどん屋から、湯気とともに何かが漂ってきた。
それは懐かしさではなく、不思議な違和感だった。
その日、私は珍しく昼時に時間が空き、ふらっとその店の暖簾をくぐった。
商店街の古いうどん屋
うどん屋の親父は、いかにも昭和の頑固職人という風情で、口数が少なかった。
だが、湯気の立つ土鍋を差し出しながら、ふとつぶやいた。「もうすぐ閉めるんです、この店」
その言葉に、なぜだか胸騒ぎを覚えた。
謄本が語る過去
閉鎖登記簿の一枚の謎
事務所に戻ると、なぜかその店の土地建物が気になって、閉鎖登記簿を請求した。
昭和の終わりに何度も所有権移転が繰り返されており、何かおかしい。
しかも、最後の所有者の欄には見慣れない名前が記されていた。
消えた所有者欄の真実
法務局の職員に訊ねると、当時の登記は手書きで、修正の痕跡もあるとのこと。
訂正印の場所が微妙に不自然だった。
「うどん屋の親父、本当の所有者じゃないかもしれませんよ」そうサトウさんがつぶやいた。
依頼人は店主の娘
戸籍と謄本のねじれ
うどん屋の親父の娘と名乗る若い女性が、私の事務所を訪れた。
彼女の話では、父は数年前に土地の名義を変えるつもりだったが、謄本が違っていたという。
「父はこの土地を借りているだけだって言うんです。でも、固定資産税はずっと払っていた」
湯呑みの底に沈んだ意志
私の手元にあったのは、明らかに修正された謄本のコピーと、数枚の古い税通知書だった。
彼女の目の奥には何かを押し殺すような覚悟が見えた。
そのとき、机に置かれた湯呑みの底に、昭和の印判が反射して見えた。
サトウさんの冷たい推理
手書きの訂正印の罠
「これ、訂正印の形が違います。昭和57年に使われていた印鑑の形と一致しません」
そう言ってサトウさんは、登記簿のコピーを拡大鏡で睨みつけた。
彼女の指摘通り、印影は微妙に歪んでいた。まるで誰かが後から捺したように。
湯気に隠れた偽筆の一撃
古いうどん屋の奥、戸棚の裏から、登記申請書の写しが出てきた。
筆跡鑑定に回した結果、それは親父のものではなかった。
彼は所有者を装っていただけで、真の所有者は戦後まもなく消息を絶った人物だった。
やれやれ僕の出番か
熱々の器が告げた犯人
私は再び店を訪れ、鍋焼きうどんを注文した。
「この器、ずっと変えてないんですか?」と訊くと、親父は目を伏せた。
器の底に彫られた姓が、すべてを物語っていた。彼のものではなかったのだ。
登記とだし汁の交差点
「やれやれ、、、面倒なことになったな」
私は謄本と器の底を照合し、法的措置の準備を整えた。
この一杯の鍋焼きうどんが、所有権の争いを決着させるとは夢にも思わなかった。
鍋が冷める頃に
土地は記憶している
結局、親父は真実を語り、正式な名義変更がなされた。
彼の言葉は、鍋の湯気よりも静かで、どこか切なかった。
「この土地に、少しでも恩返ししたかったんだ」
再開発の影に揺れる正義
数週間後、その土地は再開発で取り壊されることになった。
親父は娘と共に別の町へ移り、新しい店を構えるという。
私はただ、一冊の謄本と湯気立つ器を思い出すだけだ。