依頼人は二人
午前十時の来訪者たち
夏の朝、蝉の声が窓の外に反響していた。そんな中、事務所のドアが開いて、男女二人の依頼人が現れた。見た目はごく普通の中年夫婦、少し緊張した面持ちで書類を持参していた。
「こちら、土地の共有名義変更をお願いしたくて…」と男性が口を開く。彼らはある市街地の土地の登記を、夫婦連名で行いたいというのだ。聞けば、住宅ローンの名義変更に伴うものだという。
一見、よくある依頼に見えた。だが、彼女——サトウさんが眉をぴくりと動かした。その微妙な反応が、すべての始まりだった。
夫婦という名の仮面
「ところでお二人、戸籍謄本のご用意は?」とサトウさんが問いかけた。すると女性の方が、どこか曖昧な笑みを浮かべながら、「はい、戸籍は…ちょっと今手元になくて…」と目を逸らす。
この時点で、すでに何かがおかしいと感じた。夫婦で共有名義にするなら、通常は戸籍で確認される婚姻関係が必要不可欠だ。だが、それに対する彼らの反応は、どこか不自然だった。
しかも、委任状の署名もどこかぎこちない筆跡だった。まるで誰かが急いで書いたような、それでいて他人の癖をなぞるような文字——サトウさんが見逃すわけがない。
不自然な委任状
見慣れた書式に潜む違和感
司法書士として、数えきれないほどの委任状を見てきた。だが、今回のそれは形式は整っているものの、妙に新しい紙、妙に乾いた印影、そして押印の位置もやや斜めだった。
「最近よく見るな、この“用紙だけキレイ”パターン」と私はつぶやいた。これはコンビニで急いで印刷されたパターンだ。つまり、事前に用意されたものではない可能性が高い。
「やれやれ、、、また面倒な案件かもしれんな」と私は椅子に背を預け、天井を見上げた。
サトウさんの鋭い指摘
「シンドウ先生、この委任状、女性の名前で印鑑登録されてる印影と一致しません」とサトウさんが冷静に言い放った。彼女はすでに市役所の照会を済ませていたようだ。
私は軽くうなずく。「じゃあ、仮にこの印鑑が違ってるとすれば、登記は通らんどころか偽造の可能性すらあるな」——すると、サトウさんはさらに一言。
「それに、“連名登記”にこだわる理由、他にあると思いませんか?」彼女の目は鋭く光っていた。
司法書士の違和感
何かが噛み合わない
何がそんなに引っかかっているのか。それは、二人がまるで他人同士のように振る舞っていたことだった。共に暮らしている気配がなく、どこかぎこちない空気が流れていた。
私は書類の裏面にあった過去の登記履歴に目をやった。「ん…こりゃまた妙だな、前の持ち主は女性名義だったのに、相続登記がされていない」と気づく。
登記簿の中には、時折“現在”よりも雄弁な“過去”が記されている。今回もそうだった。事件の鍵は過去の書き換えられていない履歴にあった。
旧登記簿に遡る
過去の所有者の影
古い資料を調べると、女性の名前で登記されていたが、実際に使用していたのはその兄だったという話が出てきた。どうやら、兄は妹名義で土地を所有していたらしい。
「怪盗キッドもびっくりだな、影に隠れた所有者ってわけか」と私は苦笑するが、サトウさんはピクリとも反応しない。
この構図、所有者と名義人が違うという典型的な“隠れ所有”のケースだった。
消された登記原因
さらに不思議なのは、登記原因証明情報がどこかに“紛失”したとされていた点だった。これがなければ、過去の取引を追うのが極めて困難になる。
つまり、誰かが意図的に過去を“消し去ろう”とした可能性がある。今さらだが、これはただの名義変更ではない、隠された誰かの“意思”が働いていた。
「一筋縄じゃいかないな…」と私はため息をついた。
もう一つの真実
連名のもう一人は誰か
女性の素性を調べるうち、彼女は実際には男性の遠縁であり、名義貸しを依頼されていたことが判明した。つまり、この登記は真の共有ではなかったのだ。
裏では、兄妹間のトラブルがこじれ、第三者名義にして財産を守ろうとした策だった。だが、そこに司法書士を利用しようという魂胆があったわけだ。
「こういうの、サザエさんなら“ちゃぶ台返し”案件だよな」と私はつぶやいた。
土地の本当の価値
調査の結果、その土地は市の再開発エリアに含まれており、現在の倍以上の価値が見込まれていた。彼らが連名にこだわった理由が、ここでようやく見えてきた。
つまり、彼らは“真の所有者”としての体裁を整えて、高値売却を目論んでいたのだ。名義上の共有者がいれば、より信ぴょう性が増すと思っていたのだろう。
だが、その計画は甘かった。登記は、そんなに都合よく操作できるものではない。
夜の追跡
ひとり調査に向かったシンドウ
私は夜、法務局の閉庁後に市役所の図書資料室へ向かった。昔の住居表示変更の記録と、地価の移り変わりを確認するためだ。
「こういうときだけ元野球部の足が役に立つな」と思いながら、真夏の蒸し暑さのなか、汗をぬぐいながら資料を読み込んだ。
そして、確信に変わった。すべてのピースは、ようやく揃った。
鍵を握る古い契約書
翌朝、私は女性に旧契約書の提示を求めた。「持ってないと言っていたが、持ってますよね?」と切り出すと、彼女は観念したように、かばんから一枚の書類を取り出した。
そこには、兄が土地を無断で使用し続けていた事実が、はっきりと記されていた。つまり、女性はずっと“ダミー”だったのだ。
「やれやれ、、、ダミーはダメですよ」と私が言うと、サトウさんが小さく吹き出した。
サトウの推理
冷静な視点が解く糸口
「結局、書類だけじゃ本当の関係は見抜けない。だけど矛盾は隠せないものですね」とサトウさん。彼女の観察力と論理は、事件の核心を突いていた。
司法書士としての経験だけではなく、彼女の冷静な視点が、今回も事件を解決に導いたのだった。
「サトウさん、将来探偵事務所でも開きます?」と冗談を飛ばすと、「ご冗談を」と塩対応が返ってきた。
真相は登記簿にあり
すべては登記簿に記録されていた。見過ごされていた履歴、偽られた署名、そして裏にあった人間関係。紙の中に、人間の欲望が染み込んでいた。
私はそれを読み取る“仕事”をしている。時には探偵よりも深く、時には怪盗の企みすら先回りして。
「でもなあ、もうちょっとモテてもいいんだけどな」と、誰にともなくつぶやいた。
登記官の協力
一枚の写しが暴いた関係
法務局の登記官が過去の登記原因証明情報の控えを探してくれた。そこには、今回の“連名登記”と同一筆跡で署名された、過去の申請書が見つかっていた。
これが決定的証拠となった。彼らの計画は完全に破綻し、不正な登記申請は取り下げられた。
登記官には缶コーヒーを一本手渡し、「おかげで助かりました」と礼を言った。
結末と報告
名義の裏にある家族の断絶
彼らの関係はすでに破綻しており、財産分割と遺恨だけが残っていた。今回の登記は、それを“偽り”で包もうとした小細工に過ぎなかった。
「登記って、嘘も書けるけど、嘘は残るんですよ」と私は依頼人に語った。無言で彼らはうなずき、去っていった。
その背中を見ながら、私はコーヒーをすする。今日も、紙の上で事件は終わった。
司法書士の役割とは
私たちの仕事は、真実を書くことではない。だが、偽りを見抜くことはできる。サザエさんのような平和な日常には遠いかもしれないが、それでも“人の人生”が紙の中にある限り、私の出番はなくならない。
「やれやれ、、、また一件落着ってことか」私は椅子を回転させ、次のファイルを手に取った。