朝一番の違和感
朝の空気はひんやりとしていたが、事務所内はいつも通りの静寂に包まれていた。
しかし、机の上に置かれた一枚の委任状を見た瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。
印影が、わずかに右へズレている。それだけのことなのに、違和感は強く残った。
サトウさんの冷静な一言
「位置、ズレてますね。普通はここ、もう少し左です」
背後から冷静に放たれたサトウさんの声に、思わず肩をすくめた。
彼女の観察眼には、いつもながら感心せざるを得ない。
依頼書に滲む不信感
提出された登記申請書には、誤字脱字こそなかったものの、やはりどこか作為的な印象が拭えなかった。
司法書士の勘、なんて言葉は信用されにくいが、実務に携わる者として、違和感に耳を塞いではいけない。
「この人、本当に依頼人なんですかね」サトウさんの声がさらに冷えた。
印影のズレが残す足跡
登記申請書に貼られた印鑑証明書を見比べていくと、意図的にズレを演出しているように見える。
まるで、ズレそのものが何かのサインのように思えてきた。
「印鑑を斜めに押す癖とかじゃなさそうだな……」
見落とされた微細な違い
印影の形は同じだが、墨の濃さ、押す圧力のバランスに違いがある。
古畑任三郎ならここで即座に犯人を見抜いていただろうが、こちらは地味な現場調査が頼りだ。
それでも、ズレているという事実が、この書類の「異物性」を証明していた。
謎の依頼人キタムラ
電話での対応時も、不自然な言い回しがあったキタムラという依頼人。
委任状を持参したときの立ち居振る舞いも、どこか借り物のようだった。
「名義変更を急いでまして」と口にしたが、まるで本人であることを証明したがっているように見えた。
ふと見上げた天井のヒント
天井の蛍光灯がちらついていて、ふと目線を上げた。
視線を戻すと、書類の右上にある住所欄にわずかな訂正跡を見つけた。
修正テープの上からプリントされた文字。これは、手が混んでいる。
シンドウのうっかりと執念
「やれやれ、、、また見落としかけたよ」
ボヤきながらも、気になったことは徹底的に調べる。それだけが取り柄だ。
小さな違和感が連鎖し、次第に一枚の絵として浮かび上がってくる。
元野球部の視野の広さ
昔、センターを守っていた頃の癖か、周囲を一度俯瞰して見るクセがある。
書類全体を俯瞰したとき、筆跡のクセが委任状と申請書で違うことに気づいた。
これは、誰かが書類を差し替えた証拠ではないか。
古い登記簿と新しいズレ
法務局にて登記簿を閲覧すると、元の所有者と申請内容に矛盾があった。
委任者の住所が数ヶ月前から別の場所に移転していたのに、申請書には旧住所が記載されていたのだ。
これは、本人では作れないミスだ。
コピーされた委任状の罠
原本と称された委任状も、実はコピーに印鑑を押し直したものだった。
サトウさんが光に透かして見せたとき、紙の繊維が不自然に毛羽立っていた。
「こんな雑な偽造、逆に珍しいですね」と彼女は静かに呟いた。
押印を狂わせた動機
犯人は、亡くなった依頼人の兄弟だった。
相続手続きを待たずに名義を移し、後で売却して現金化する腹づもりだったようだ。
ズレた印影は、慌てて押した証だった。
相続人の影に潜む意志
遺言もなく、登記の手続きも混乱している中で、兄弟は強引に話を進めた。
「本人が急いでる」と言いながら、実際はすでに亡くなっていたという事実が明るみに出る。
これで、すべての辻褄が合った。
サトウさんの反論と指摘
「だから言ったじゃないですか、ズレてるって」
サトウさんの鋭さに、今回は完全に助けられた格好だ。
やれやれ、、、本当に頼りになる。
冷たい声が導いた真相
「司法書士って、事実を見抜くのが仕事じゃなかったですか?」
彼女の冷たいが正論な声に、反論できる余地はない。
せめてもの抵抗として、缶コーヒーをおごることにした。
事件が終わったあとの午後
事件が一段落した午後、静かな事務所に戻った。
蛍光灯のちらつきも止まり、いつもの日常が戻ってきたようだった。
ただ、印鑑を押すときは今後もっと注意しようと、心に誓った。
フロッピーのように懐かしい午後
ふとサトウさんが「フロッピーってまだ使えるんですか?」とつぶやいた。
昔のデータを探していたらしいが、そんなものはもう読めるPCすらない。
「まるで俺の青春だな」と意味のない返しをしてしまった。
再発防止の貼り紙とため息
「押印は落ち着いて丁寧に!」と書かれた貼り紙を、事務所のコピー機の上に貼った。
それを見たサトウさんが「あなたに一番必要ですね」と小さく笑った気がした。
やれやれ、、、またやられた。
事務所に静かに戻る日常
事務作業の音が静かに響き、事件前と変わらぬ時間が流れ始めた。
電話もなく、窓から見える電柱がゆっくりと影を伸ばしていく。
この静けさが、何よりありがたい。
もう少しだけマシな日
今日のうっかりは、なんとか誰かの役に立ったような気がする。
元野球部のプライドが少しだけ蘇る。
それでも、まだモテる気配はない。
サトウさんは見ていないようで見ている
机の上を整えていると、サトウさんが一瞬だけ視線を上げた。
「まぁ、たまには役に立ちましたね」その一言に、少し救われる。
ズレていたのは印影だけじゃなかったのかもしれない。
ズレていたのは印影だけか
この事件で、一番大きくズレていたのは、自分自身の心だったのかもしれない。
もっと慎重に、もっと誠実に、そういう気持ちを思い出させてくれた。
さて、次の依頼人もまた何かを隠している顔をしている。
今日もまた書類に向かう
書類と向き合い、印鑑を手にする。
ほんの数ミリのズレが、真実を隠す鍵になることがある。
今日も、ハンコを押す位置に神経を尖らせながら。