朝の電話とサトウさんのため息
朝8時。電話のベルが鳴り続けるなか、俺は湯気の立つインスタント味噌汁を前にしていた。「電話、出てください」とサトウさんの冷ややかな声。俺が渋々受話器を取ると、いかにもな年配女性の声が飛び込んできた。
「先生、あの土地の登記、急いでやってほしいの。私が正妻ですから」と。その一言で、今日も面倒な一日になることを予感した。しかも“正妻”という言葉が二度繰り返された。
鳴り止まない電話と登記簿の名義人
数分後、今度は違う番号から電話。「あの土地は私のものよ。女房ヅラするのやめてって伝えて」と叫ぶような声が受話器越しに響いた。二人の女性が、同じ土地の所有を主張していた。
調べてみると、登記簿の名義は10年前のままで、相続登記もされていない。だが不思議なのは、その名義人は既に死亡しているにもかかわらず、どちらの女も「その人の妻」と言い張っていることだった。
依頼人は二人の妻を名乗った
午前と午後、それぞれの女が事務所を訪れた。戸籍上の妻と、同居していたという女。会わせないように時間をずらしたが、どちらも強烈なキャラクターだった。
前者は「戸籍は絶対」と言い、後者は「介護していたのは私」と怒鳴った。双方が提出した委任状には、どちらも同じ被相続人の名前と押印。だが、サインの筆跡が微妙に違うような気がした。
矛盾だらけの委任状
「これ、同じ人が書いたとは思えませんね」と、サトウさんが鋭く言った。委任者の住所も、印鑑登録証明書とズレている。だがそれを指摘すると「そもそも引っ越ししたから」と苦しい言い訳が返ってきた。
やれやれ、、、俺は深くため息をついた。どうやらこの件、単なる登記手続きでは済まなそうだ。
消えた登記原因と空白の数年
登記簿を見ると、原因欄には「平成26年相続」とあるだけで、関係する法定相続人の記載がない。なぜか中間の所有者が飛ばされており、登記が途中で止まっていた。
俺はふと、ある種の意図的な空白を感じた。原因が書けなかったのではなく、書きたくなかったのではないか。そんな疑念が心をよぎる。
公図には残るが現地にはない
公図上では確かにその土地は存在していた。だが現地に行ってみると、そこには空き地と、雑草に埋もれた井戸の跡があるだけだった。
地元の古老に聞いてみたところ、「昔は家が建ってたが、女が夜逃げしてから誰も住んどらん」とのことだった。女? どの女だ?
過去の名義人は誰だったのか
俺とサトウさんは、過去の名義人である男の死亡診断書と戸籍謄本を調べた。死亡届を出したのは戸籍上の妻ではなかった。そう、同居していた方の女だった。
しかも、その時の続柄には「内縁の妻」と記されていた。つまり彼女は法律上の妻ではなかったのだ。
登記簿から消された女の名前
さらに調査を進めると、かつてこの土地にはもう一人の女の名が一度登記された記録があったが、抹消登記がされていた。その理由は「錯誤」——つまり、間違って登記された、ということになっていた。
だが、その錯誤申請の添付書類には、明らかに第三の女の署名があった。「錯誤」ではなく「抹消」させられたのだ。
サザエさんのカツオ理論と登記の違和感
「カツオくんがもし土地を持ってたら、花沢さんと中島くんと波野ノリスケが同時に名義主張してくる、そんな感じです」と俺が言うと、サトウさんは「それ、例えが悪すぎます」と呆れ顔。
しかし、登記というのはある意味で“誰が本当に関わったか”の記録。それがこんなに歪んでいるのはおかしい。いや、怖いと言ってもいい。
所有者なのに払ってない人の不自然さ
固定資産税の納付記録を調べると、なんとどの女の名義でもなく、第三者の名前で長年支払いが続いていた。その人物こそ、最初に登記された“消された女”の息子だった。
つまり彼女こそが真の所有者だったのか? では、なぜ自ら名義を外したのか?
やれやれ、、、深まる謎とコーヒーの味
俺たちは喫茶店「ペンネーム」で休憩を取った。店内にはキャッツアイのテーマソングが流れていた。カウンター越しのマスターが「この店も登記めんどくさいんですよ」とぼやく。
やれやれ、、、俺は砂糖を入れすぎたコーヒーをすすりながら、すべてが繋がる糸を考えていた。
喫茶店で浮かんだ推理の断片
サトウさんがぼそっとつぶやいた。「本当に所有したい人は、登記しないんですよ。表に出たくないから」——その瞬間、俺の中で一気にパズルがはまった。
すべての女たちは、登記に自らを記録させることで、ある意味“呪い”を残そうとしていた。だが、本当の所有者はそれすら拒んだのだ。
サトウさんの冷たい一言とヒント
「誰も登記されたくなかっただけです」サトウさんは、ため息と共にそう言った。すべては過去の傷を外に出したくなかったがゆえの行動。
名義は真実を語らない。むしろ隠すこともある。司法書士としての仕事とは、その隠された物語を少しだけ解きほぐすことなのかもしれない。
「誰も登記されたくなかっただけです」
登記は、名前を刻む行為だ。だが、時として人は、記録されないことを選ぶ。記録は不在の証明にもなる。登記簿に“いない”ことで、彼女たちは存在を主張した。
それは矛盾のようで、確かな意志だった。
最後の登記とシンドウのひとりごと
俺は、登記簿に必要最小限の事実だけを記載した申請を出した。添付書類にある女たちの名前は、申請書の奥深くに収められている。表に出ることはない。
帰り道、事務所の前で夜空を見上げた。「俺も誰かに記録されたいもんだよ、、、」そうつぶやくと、背後から冷たい声が飛んできた。「はいはい、残業代出してくださいね」