愛を登記できますか
午前九時の依頼人
その朝はコーヒーを入れる暇もなかった。開業以来、一番地味で一番地道な登記申請が山積みになっていて、僕の机は書類の海に沈みかけていた。そんな中、事務所のドアが静かに開いた。
恋人の証明書
現れたのは、少し背の高いスーツ姿の女性だった。手にはクリアファイル。彼女は開口一番、こう言った。「恋を、証明できる書類ってありますか?」。僕はペンを落としそうになった。いや、実際落とした。
私文書と公文書の狭間
彼女の話によると、亡くなった恋人が生前に「このマンションは彼女に」と遺したと言うのだが、遺言もなく、名義も変えられていない。あるのは二人で交わした「愛の契約書」なるものだけだった。僕は眉をひそめた。
名前のない委任状
その契約書には、確かに署名と拇印があった。しかし、そこには受贈者の名前が書かれていない。まるでサザエさんでノリスケが曖昧な約束をしてフネに怒られるような感じだ。「この書面では登記原因にはなりません」と僕は苦言を呈した。
サトウさんの鋭い視線
「でもこれ、契約書としては成立してるわね」とサトウさんがぼそりと口を挟んだ。彼女は黙ってコピーを取ると、相続登記の書式と見比べ始めた。視線が紙を貫通しそうなほど鋭い。僕は黙ってコーヒーをすするしかなかった。
押印の謎
契約書には、なぜか複数の印影があった。それも、同じ人物のようで微妙に異なる。「本人が何度も押したのか、それとも……?」とサトウさんが唸る。偽造の可能性が出てきた途端、事務所の空気が変わった。
登記原因の不一致
「所有権移転の原因が“愛”では、法務局は受け取らない」と僕は頭をかいた。やれやれ、、、こういうロマンチックな話ほど、現実の登記制度には居場所がない。けれど、どこかに手がかりはあるはずだ。
旧姓に隠された秘密
彼女の話を深掘りしていくうち、あることに気づいた。契約書に書かれた名前は、彼女の旧姓だった。つまり、契約書作成当時の名義と現時点の名義にズレがある。名寄せの問題だと気づいた僕は、戸籍を取り寄せる提案をした。
愛の所在と法の限界
「結局、愛は書面には残らないんですね」と彼女は呟いた。僕は「いや、残ることもありますよ」と返した。登記にはならなくても、法的効果を持つ書類もある。ただし、それを主張するには、きっちりと証明が必要なのだ。
やれやれ事件か恋か
ようやく全ての資料がそろい、遺贈ではなく死因贈与として扱うことが可能だと分かった。必要な添付書類を作成しながら、僕は深くため息をついた。「やれやれ、、、恋の登記なんて話はもうこりごりだ」。
書類に記された終止符
数日後、法務局から登記完了の通知が届いた。彼女は丁寧に頭を下げたあと、小さな声で「この契約書、処分してもいいですか?」と尋ねた。僕は「あなたが必要ないなら、どうぞ」と言いながら少しだけ寂しさを感じた。
サインの裏に残されたもの
契約書の裏面には、手書きでこう書かれていた。「君が笑ってくれるなら、それでいい」。それは登記簿にも、戸籍にも載らない、最も静かで深い証明だった。
法務局から始まる余韻
僕はその日の帰り道、いつもより遠回りして帰った。誰もいない球場を眺めながら、若かりし頃の恋とキャッチボールをした気分になった。やれやれ、ロマンスに弱いのは司法書士の性なのかもしれない。
サトウさんのため息
「また変な案件持ち込まれたらどうするんですか」とサトウさんがぼやいた。僕は「そういうの、意外と嫌いじゃないんだよね」と答えた。彼女は呆れたようにため息をついたが、少しだけ笑っていた。
恋は登記簿に残らない
結局、恋というものは法の枠に収まらない。けれど、人はそれでも形にしたがる。僕は今日も、恋の痕跡を探して書類の山と向き合っている。ロマンと法務の狭間で、少しだけ生きている気がした。