朝の静けさに響く一本の電話
事務所の電話が鳴ったのは、まだ朝の珈琲も半分しか飲み終えていない頃だった。盆も近づき、相続の話がちらほらと増えてくる季節だ。
着信表示に見覚えはないが、声の主は落ち着いた女性だった。「兄の遺言書について相談がありまして……」そう言うと、彼女は淡々と内容を語り出した。
その声には涙も迷いもなかった。遺言書、検認、そして印影の確認——言葉が、次第に引っかかりを残すように思えた。
遺言書の検認に呼ばれた理由
依頼は公正証書遺言の内容と、そこに押された実印の確認に関するものだった。
死亡届と戸籍、印鑑証明書、そして遺言書がすでに一式揃っているという。話ができすぎているようで、どこか鼻につく。
直感というより、経験が警鐘を鳴らしていた。司法書士の仕事にサスペンスは付き物だ。
依頼人は涙を見せなかった
事務所に現れた依頼人——妹だという女性は、喪服ではなかった。黒のパンツスーツに控えめなパールのネックレス。
「兄はすべてを弟に遺すと遺言しました。私は構いません。ただ……印が少し変なんです」
言葉とは裏腹に、彼女の目は冷たく乾いていた。その視線に、感情は感じられなかった。
兄の死と相続のはじまり
兄は心筋梗塞で急逝。発見されたのは数日後で、葬儀も簡素に済まされたという。
長男でありながら、なぜか遺言ではすべてを末弟に譲ると記されていた。
妙な話だが、法的には有効。問題は、押された実印が兄本人のものかどうかだけだった。
印影の違和感に気づいたサトウさん
「これ、朱肉の染みが少なすぎませんか?」サトウさんがポツリと呟いた。
彼女は机の端に置かれた遺言書を覗き込みながら、目を細めた。
「あと、文字の上下が微妙にずれてる。多分、印影が軽すぎるんですよ。これは誰かが慎重に押した痕跡です」
朱肉のかすれた部分に潜む謎
確かにその印影は、どこか“躊躇”を感じさせた。力強さがない。
まるで本当の所有者が押すことをためらったかのように見えた。
まるで“愛のないハンコ”だ。心から押した印ではない——そんな印象だった。
やれやれ、、、俺の出番か
いつもならサトウさんに任せておくが、今回は妙に気になってしまった。
「やれやれ、、、俺の出番か」と呟き、押印証明や過去の署名を調べ始める。
この感覚、野球部時代の“サイン盗み”のときと似ていた。小さな違和感を拾っていく作業。
元野球部のカンが働く
決定打となったのは、過去の銀行届出印との照合だった。
ほんのわずかな丸み、筆圧の差、縦のずれ——そこに偽造の匂いがあった。
そして一枚のコピーが、俺に決定的な違和感を与えた。
公証役場の記録に不自然な日付
公証役場で保管されていた記録には、ある一日だけ訪問者のサインがなかった。
にもかかわらず、その日に作成されたはずの遺言書に兄の印がある。
物理的に“押せるはずのない印影”——それがこの事件の核心だった。
あの日の午後に誰がいたのか
その日の午後、公証役場にいたのは妹と弟の二人だけだった。
兄は既に亡くなっていた可能性が高い。
では、誰が印を押したのか——いや、“誰が押させたのか”が問題だった。
弟が語らなかった真実
問い詰めた弟は、最初はしらを切った。しかし次第に顔色を変え、そしてポツリと漏らした。
「兄貴の印鑑は、妹が持ってた。兄貴が死んでから……彼女が勝手に……」
沈黙のなかに、兄を失った悲しみよりも、金と支配の臭いが漂っていた。
恩と裏切りとひとつの印鑑
三兄妹は幼い頃に両親を亡くし、長兄がすべてを支えてきたという。
だが、その恩義が歪み、いつのまにか重荷となっていたのかもしれない。
押された印鑑は、最後の感情をも押し殺す道具になった。
筆跡鑑定では見抜けないもの
遺言書は形式を満たしていた。筆跡も本人のものだった。
だが、印影に宿る違和感は、法の網では救えない感情だった。
「軽い印影ですね」とサトウさんが呟いた。まるで“重みがなかった”とでも言うように。
証拠にならない“気配”
法律の世界では、感情は証拠にならない。
だが、俺たちの仕事は“気配”を見逃さないことでもある。
そしてその“気配”が、真実の扉を開く鍵になることもあるのだ。
塩対応のサトウさんが動いた
「これ、調べてみます」サトウさんが言った瞬間、少しだけ背中が頼もしく見えた。
普段の塩対応が嘘のように、静かに情熱がにじむ声だった。
どうやら、彼女なりにこの一件には感情を揺さぶられていたようだ。
カフェで聞いた意外な証言
公証役場近くの喫茶店で、店主がぽつりと漏らした。「あの日?女性が泣いてたよ。兄を失ったって。
……でもな、不思議と悲しそうじゃなかったんだ。むしろ、すっきりした顔だった」
“涙のない喪失”の裏に、本当の動機が浮かび上がってきた。
本物の印鑑と偽物の心
事件は表沙汰にはならなかった。妹は静かにすべてを放棄し、姿を消した。
俺たちは真実を見たが、それを語ることはない。
ただひとつ言えるのは、あの印鑑が語ったこと——それは「愛がないと印は軽い」ということだった。
“愛のないハンコ”の正体
物理的な重さではない。精神の、情の、そして罪の重さ。
遺言書に押された印は、兄のではなく妹の執着だった。
そしてそれは、法では裁けない“嘘”を、無言で語っていた。
ラストワードに込められた想い
遺言の最終行には、こんな言葉があった。「弟を頼む」
この一文だけが、兄の手書きであり、そして本物の印影だった。
その印は深く、朱肉が紙に沈むように押されていた。
故人の声を代弁する書類
法的な力だけでなく、人の想いを乗せる書類。それが遺言書というものだ。
“軽い印”は偽りだったが、“深い印”は確かに残った。
司法書士として、これ以上の仕事はなかった。
軽く押された印は重い罪だった
「愛のないハンコは軽い」——サトウさんの言葉が胸に刺さる。
だがその軽さは、人の人生を狂わせるだけの“重み”を持っていた。
やれやれ、、、重い話だ。肩が凝る。
そして一通の告発状
後日、検察に届いた匿名の告発状。差出人は不明だった。
妹かもしれない。あるいは弟が、遅すぎた贖罪を選んだのかもしれない。
真実は紙の裏側に、そっと貼り付けられたままだ。
やれやれ、、、俺は書類の幽霊か
事件が終わっても、俺の机にはまた書類が積まれる。
司法書士とは、紙に宿る声を聞く仕事なのだ。
やれやれ、、、幽霊に取り憑かれたようなもんだ。
司法書士にしか見えない真実
警察には届かない細い糸。それを拾い上げるのが俺たちの役目。
人が見落とす“書類の歪み”を見抜くのが、地味な正義のやり方だ。
だから俺は、今日も印鑑を見つめている。
そして事務所にはいつもの午後
「コーヒー、入れときましたよ」塩対応のサトウさんが言う。
ありがとう、とだけ返して、俺はまた一枚の書類に目を落とした。
静かな午後、変わらない仕事、変わってしまった人たちの物語。
静けさとコーヒーと未処理の書類
珈琲は少しだけ苦く、でも温かかった。
俺は静かにペンを走らせる。次の依頼は登記変更、特に事件性はない。
だがどんな書類にも、何かが潜んでいる気がしてならない。