依頼は静かにやってきた
封筒一つで始まる月曜の朝
事務所のポストに、少しだけ湿気を含んだ薄茶の封筒が差し込まれていた。差出人の名前はあるが、字体が妙にたどたどしい。 中には登記依頼書と簡単なメモ、それに古びた登記事項証明書が入っていた。
登記依頼書に漂う違和感
内容に目を通した瞬間、何かがひっかかった。依頼内容は単なる所有権移転。しかしその書類には、なにかが――欠けている。 捺印欄が白紙なのだ。朱肉の跡一つない。にもかかわらず、すべてが整っているかのような佇まいをしているのが気味悪い。
見慣れた書類に潜む異常
朱肉の痕跡がない捺印欄
普通なら真っ赤な印影が残るはずの場所が、まるで初めからなかったかのように真っ白だ。依頼人の署名はあるのに。 しかも印影がなければ補正対象となる。なのに、そのまま提出された形跡があることが不可解だった。
依頼人の署名は果たして本物か
筆跡を過去の資料と照合すると、微妙に異なっていた。形は似ているが、字の間隔が違う。 それだけで本人確認が揺らぐわけではないが、疑いの芽はすでに根を張り始めていた。
サトウさんの冷静な指摘
捺印欄はあったのかそれとも最初からなかったのか
「この申請書、最初から捺印欄がなかった可能性もあります」 背筋が伸びるような一言だった。確かに、PDF化した申請書なら改ざんは容易だ。そして、彼女の視線は封筒の折り目を指していた。
申請書控えとの矛盾
控えとして同封されていたコピーには、うっすらと赤い影があった。肉眼ではほとんど見えないが、光にかざすと浮かぶ朱。 つまり、原本の印影は消された可能性がある――だとすれば、これはただの「うっかり」では済まない。
法務局という迷宮
受付記録が語る小さな手がかり
法務局で申請記録を確認すると、提出者は依頼人本人ではなかった。代行した人物の欄には見覚えのない名があった。 その名前は――昔、一度だけ債務整理で関わった人物だった。あの時も、何かを「消して」いた記憶がある。
登記官の曖昧な記憶
「たしかに提出されましたが……印影の件? いやあ、ちょっと……」と登記官は顔をしかめる。 まるでサザエさんのカツオが宿題を忘れた時のような誤魔化し方だった。記憶はあてにならない。だが、他に証拠がない。
浮かび上がるもう一つの登記
消えた印鑑と裏で動く売買契約
同日に別の不動産売買契約が動いていたことがわかった。しかも、今回の対象地と隣接する土地だった。 境界が曖昧な地域で、印影が消されたことで、登記手続きが一方的に有利になるよう仕組まれていたのだ。
同日に申請されたもう一通の依頼書
まったく別名義の依頼書が、同じ日付、同じ法務局で受理されていた。しかもこちらにはきちんと印影があった。 つまり、印鑑の不正利用と二重申請が行われていた疑いが強まる。
やれやれ、、、まったく厄介な話だ
封印された意思表示
なぜ依頼人は黙っていたのか? もしくは、本当に依頼していたのか? 印影がないことで、意思表示そのものが曖昧になる。 意思表示を“封印”された依頼人は、ただ黙っていた。そしてそれが、不正の温床となっていたのだ。
登記情報の行間に隠された狙い
登記は情報の集合体だが、その“空白”もまた情報だ。印影の欠如、それが狙いだった。 つまり、「押されていないこと」が、押された以上に効力を持ったということだ。
逆転の一打は朱肉の色だった
誰が押していないことに気づいていたのか
サトウさんが、コピーの“かすかな赤”に気づいていなければ、気づかずに終わっていただろう。 朱肉の色は証拠になりうる。そして、彼女はそれを見抜いた。まるで名探偵コナンの灰原のように。
捺印なき登記が意味するもの
印影がないというだけで、手続きが止まる。だがそれは、時に真実を見抜く手がかりにもなる。 一つの“欠け”が、全体の歪みを暴き出すことがあるのだ。
依頼人の真実と目的
隠された相続放棄の裏事情
依頼人は、実はその土地の相続を望んでいなかった。しかし親族に説得され、押し切られかけていた。 だから印を「押さなかった」。そして、それが唯一の抵抗だった。
サトウさんの一言が全てを貫く
「押していないということは、まだ意思があるということです」 冷たいようで的確なその言葉が、依頼人の胸に届いた。彼は涙をこらえながら「ありがとう」とだけつぶやいた。
最後の手続きと小さな救済
偽造と無効を越えてたどり着いた結論
結果的に登記申請は却下され、別の手続きを経て正当な相続放棄がなされた。 誰もが納得したわけではないが、誰もが前に進めるようにはなった。
シンドウのささやかな勝利
事務所に戻ると、もう夕方だった。ぐったりとした身体を椅子に預け、天井を見上げた。 「やれやれ、、、司法書士ってのは、探偵より地味だな」と口に出すと、なぜか少しだけ笑えた。
誰にも気づかれなかった正義
今日もまた誰かのための書類を綴じる
事件が終わったあとも、事務所にはいつも通りの書類と印鑑の音が響いていた。 一つひとつの手続きに、誰かの小さな真実が眠っている。
サトウさんの視線が少しだけ優しかった気がした
ふとサトウさんのほうを見ると、彼女がほんの一瞬だけ目を合わせ、すぐに視線を外した。 いつもと変わらぬ塩対応。でも、気のせいか、あの時だけは朱肉のような温かみがあった。