朝の静寂と一枚の謄本
盆も過ぎたというのに、蝉の声は衰える気配を見せなかった。私はいつものように、机の上に山積みになった書類を前に、ため息をついていた。朝の静寂を破るのは、サトウさんが淹れたコーヒーの香りと、ガチャリと開いたドアの音だった。
「これ、今朝届いた登記簿です」そう言って彼女が机に置いたのは、一件の相続登記依頼に関する謄本だった。だがその中の記載に、私は妙な既視感を覚えた。何かが、、、おかしい。
サトウさんのため息とコーヒーの香り
「また何か気になったんですか、所長」コーヒーカップを手に、サトウさんがぼそりとつぶやく。「はい、気になるんです」と私は曖昧に返しながらも、視線は謄本に釘付けだった。
普段なら見落とすような細かな違和感。それは筆跡の揺らぎ、そして登記年月日の微妙なズレだった。もしかして、、、これは。
登記簿に記された違和感
相続人として記載されている三人のうち、ひとりだけ字体が異なる。「第三の男」——そう心の中でつぶやいた瞬間、コナンのシルエットが脳裏に浮かぶ。「真実はいつもひとつ!」いや、そんな勇気もキメ台詞も、私にはない。
それでも、司法書士としての勘は確かだった。これは間違いなく、不自然だ。
第三の名義人
依頼人は、先月亡くなった父親の遺産分割を求めてきた青年だった。彼が提出した戸籍にも、相続関係説明図にも、三人の子しか記載がない。だが謄本には四人目——いや、三人目の名義人として別の名前が刻まれていた。
これは「見えない誰か」が意図的に記入した可能性がある。
依頼人は亡き父の謎を持ち込んだ
「父にはそんな兄弟はいません」と青年ははっきりと言い切った。だが謄本には、昭和50年ごろの住所とともに「ヨコヤマセイジ」の名前がしっかりと記されていた。共有名義として三分の一。
私は、この名前に心当たりがあった。昭和の末、ある事件で話題になった人物だ。
一筆だけ違う筆跡
法務局で保管されている原本を確認すると、たしかに筆跡が違う。まるで写し絵のように丁寧に似せてはいるが、力の入れ方や角の処理がまるで違う。これは素人ではない。
登記官か、、、あるいは、プロの偽造屋か。
所有者欄の外にあるもの
「このヨコヤマって、サザエさんに出てくる三河屋の酒屋さんみたいですね」とサトウさんがぽつりと言った。たしかに、突然現れるあの押しかけキャラのような不意打ち感がある。
だがこの「押しかけ名義人」は、かなり根が深そうだった。
司法書士としての直感
法務局のデータベースを片っ端から調べ、私は気づいた。ヨコヤマセイジの名前は、同じ市内の複数物件で出現している。しかもそのすべてで、所有割合は三分の一。
これは偶然ではない。誰かが、意図的に“足場”を作っている。
地番の記載に隠された暗号
さらに見ていくと、ヨコヤマの名義がある地番は、いずれも都市開発計画の対象地域に含まれていた。「地価が上がる」と読んだ誰かが、架空名義を使って登記したのかもしれない。
やれやれ、、、俺の仕事は土地家屋調査士じゃないんだけどな。
調査は旧町名から始まる
私は古地図と旧町名の台帳を引っ張り出した。現地調査も必要になるかもしれない。登記の流れを追うには、紙の痕跡を一つずつなぞるしかない。
「また、泥臭い作業ですね」サトウさんが言う。わかってる、、、わかってるよ、、、
法務局の奥の棚にあった古い帳簿
その帳簿は、埃をかぶっていたが、確かな証拠を残していた。昭和55年、持ち主が急逝し、法定相続が行われた記録。だが、そのときの相続人一覧には、やはり「ヨコヤマ」の名はない。
では、なぜ今、そこにいるのか。
昭和期の名変と登記官の失踪
ひとつだけ気になる記事を新聞の縮刷版で見つけた。昭和58年、法務局職員が急に失踪し、その後懲戒解雇となった。彼の担当区域こそ、ヨコヤマ名義が集中する地域だった。
ここにきて、ようやく全体像が見えてきた。
登記識別情報の正体
現代ではマイナンバーと連携している登記識別情報。しかし当時は紙だった。その「紙」を、偽造して配っていた人物がいたのだろう。
問題は、その偽造が現在も「生きている」ことだ。
なりすましと共有名義の罠
ヨコヤマセイジは存在しない。いや、存在していたが、数十年前にすでに死亡していた。彼の名義は、どこかの誰かに利用され続けているのだ。
これを証明するのは時間の問題だった。
第三の男の正体
依頼人の父は生前、旧友に土地の便宜を図っていた。その旧友の名が、まさしくヨコヤマセイジだった。登記は遺言によらず、秘密裏に、書類一枚で行われていた。
ヨコヤマの死亡後、その名義は幽霊のように独り歩きを始めたのだった。
やれやれ、、、また厄介な事件だった
一件落着とはいえ、手続きは山積みだった。名義の抹消、相続人への通知、登記の更正——地味だが、確実にこなさねばならない作業。
「やっぱり司法書士って、影の探偵ですね」サトウさんが言った。
結末に残るひとつの空欄
私はふと、謄本の最後のページを見た。そこに空欄がひとつ、ぽっかりと残っていた。登記官による「備考欄」——何も書かれていないはずなのに、そこに「気配」を感じた。
きっとまだ、すべてが終わったわけではない。そんな気がしてならなかった。