朝の事務所に届いた不自然な封筒
押印の向きが気になった朝
蒸し暑い火曜の朝。郵便受けに突っ込まれていた白い封筒が、どうにも気に入らなかった。差出人の名前はあったが、表書きの文字が微妙に右に傾いている。さらに、裏の封に押された印影が逆さを向いていたのだ。
封筒の端は少しだけ浮いていた。封緘はされているが、一度開封された後に再び糊付けされたようにも見える。慌ただしい朝のはずなのに、私はなぜかその封筒に目を奪われ続けていた。
「気にしすぎか?」と自分に言い聞かせながらも、手元から離せずにいた。何かがおかしい。その“何か”にまだ名前はつけられないが、不穏な感覚が指先に残っていた。
サトウさんの無言の一瞥
出勤してきたサトウさんが、私の手元の封筒にちらりと目をやる。そして何も言わずに自席に着いた。だが、その視線の重さは言葉よりも雄弁だった。
「見ましたか? この印影の向き」そう問いかけようとしたが、彼女は既にパソコンに向かってカタカタとタイピングを始めている。塩対応すぎる。
とはいえ、その無言の反応がすでに答えを出していた。彼女もまた、あの逆さの印影に“違和感”を感じていたのだ。
依頼者は笑っていたが
相続登記の相談にしては妙だった
午前十時きっかりに現れた依頼人、村田という男は、にこにこと柔和な笑顔を浮かべながら事務所に入ってきた。「亡くなった父の相続登記をお願いしたくて」と、机の上に封筒を差し出してくる。
その封筒は、今朝届いたそれと同じものだった。中には遺産分割協議書と、父親の戸籍、そして印鑑証明書が整然と入っている。だが、書類が整いすぎていた。
私は一通り目を通しながら、心のどこかで「うっかり信じてしまいそうだな」と苦笑していた。いや、笑っている場合じゃない。
あまりにも整いすぎた書類
こうも手際よく全書類が揃っている依頼者には、何かしらの“計画性”があると疑うべきかもしれない。とくに印鑑証明書と協議書の押印の一致ぶりが、逆に気味悪い。
そのうえ、協議書に記載された「実印」が、どれも微妙に角度を持って押されていた。それもすべて同じ“逆さ”の向き。これは偶然か?
「こういうの、名探偵コナンだったらまず顕微鏡で見るやつだな」と自嘲気味に考えていた。
赤い印鑑と青いボールペン
押印位置のわずかなズレ
朱肉の滲み方、押印の圧力、インクの濃淡。細かく見ると不自然な点が浮かび上がる。たとえば、ある印影では下部が強く、別のものでは左上が濃い。本人が押したにしては癖が統一されすぎていた。
さらに気になったのは、青いボールペンで記された署名部分だ。どの署名も少しだけ左に傾いているが、押印の向きとは整合しない。
まるで、署名と印影が別々の人間によって別のタイミングでなされたようだった。
筆跡の乱れに潜む秘密
私たち司法書士は筆跡鑑定人ではない。でも、書類を毎日見ているうちに、“おかしな筆跡”というのは感覚でわかる。特に遺産分割協議書にあった弟の署名は、やけに整いすぎていて、人間味がない。
しかも、その筆跡だけに妙な震えがある。まるで利き手じゃない方で書かれたような――いや、それはつまり“左手”で書いたのか?
ここで、私は今朝の封筒を思い出した。印影が逆さだった理由。それは「左手で押した」からなのでは?
「それ、どこで書かれたんですか?」
やれやれ、、、質問の意図が伝わらない
「これ、協議書はどこで皆さんで集まって作成されたんですか?」そう尋ねると、依頼者の笑顔が一瞬だけ凍った。「あー、自宅で。兄弟と一緒に」
うさんくさい。言葉の端々に準備された返答の匂いがする。私は心の中でため息をついた。「やれやれ、、、こういうときに限って嘘が雑だ」
すると、後ろからサトウさんが低く言った。「その封筒、家のプリンタですね。裁断が粗い」
サザエさんのような依頼人の言動
「えっ?いやいや、ちゃんと郵便局で送ったんですよ」と言いながら、依頼者はなぜか自分のスマホを机に置いたまま立ち上がった。その姿はまるで、自分のミスを必死にごまかそうとするサザエさんのようだった。
「印影が逆なんですよ。全部。押印の方向が左上45度に傾いています。右利きでは不自然です」と私が静かに言うと、依頼者の表情が見る見るうちに引きつった。
「え、そ、そんなことは……」
印影が物語る”左手”の存在
左上に流れる朱肉のクセ
複数の印影を見比べると、どれも左上に強く圧力がかかっていた。まるで、左手で押したような角度。それに、筆跡の震え――一致している。
協議書に記名した人間は、被相続人の長男を偽った別人。たぶん村田本人だ。左手で偽名を書き、印鑑を逆向きに押した。その「不自然な一致」が、逆に彼を追い詰めた。
「これは刑事事件になりますよ」と、私は淡々と告げた。
右利きのクセでは説明がつかない
すべての印影に共通する“角度”が決定打だった。右利きなら、印鑑はやや右上に傾くことが多い。だがこれは真逆。つまり、すべてが“演技された証拠”だったのだ。
ここまで来てようやく、サトウさんが「これで一杯、アイスコーヒーください」とぼそり。場が静かに緩んだ。
消えた被相続人の手帳
火曜日にしか見えない矛盾
その後、確認された被相続人の手帳には「7月15日、次男とは絶縁」との記載があった。協議書では“和解済み”となっていたが、筆跡と内容からして明らかに矛盾している。
「やっぱり、帳尻が合わないものは、帳尻でバレるんですね」と私がぼやくと、サトウさんは無表情で「当然です」と返してきた。
この温度差にももう慣れてきた。悲しいけど。
真相の開示と依頼人の動揺
うっかり見逃すところだったが
あの印影の向きに気づかなければ、私はこの件をそのまま通していただろう。いや、サトウさんがいなければ、最初から封筒すら気にしなかったかもしれない。
「シンドウ先生、今後はもう少し慎重にお願いします」と、笑いも皮肉もない声が飛んできた。やれやれ、、、耳が痛い。
でもまあ、最後に決めたのは俺だ。うっかりでも、それくらいは主張したい。
封筒と印影の真実
偽装された相続の末路
事件は刑事告発へと進み、相続登記も当然ながら却下となった。村田はあっけなく罪を認め、「兄弟に黙って自分だけ得をしたかった」と供述したという。
押印の向きという、ごく些細な違和感が、ひとつの嘘を暴いた。司法書士の日常には、そんな“証拠”が時折紛れ込む。
派手さはないが、確かな仕事。それが、俺の居場所なのだ。