登記簿の片隅に
朝のコーヒーがまだ熱いうちに、ぼくの机の上に一枚の登記簿謄本が置かれていた。サトウさんが無言で差し出したその紙には、ありふれた相続登記の記録が載っていた。ただし、ひとつだけ、目にとまる点があった。
それは「備考」欄に書かれた、たった一行の記述。「乙区番号六番は抹消済」とだけあった。まるで、誰かが気まずさを隠すようにさらりと書きなぐったような文字だった。
登記簿は嘘をつかない。だが、すべてを語るわけでもない。
きっかけは依頼人のひと言
「父が遺した家を売りたいんですが……」依頼人の青年は、どこか歯切れが悪かった。元は祖父が建てた家だというが、相続関係がややこしいらしい。
「抹消された番号って何ですか?」と尋ねると、彼は首をかしげて答えた。「いえ、そんなのは聞いてません」
その瞬間、ぼくの中の名探偵コナン(見習い)がむくりと目を覚ました。
曖昧な記載に潜む違和感
土地の所有権は確かに彼の父から彼へと引き継がれていた。しかし、それ以前の「乙区六番」という情報が、妙に気になった。誰が、いつ、何のために抹消したのか。
それを明らかにしないまま所有権移転するのは、地雷原を渡るようなものだ。もしそこに抵当権が残っていたとしたら、売却後に爆発する。
事務所の片隅に眠っていた旧謄本ファイルを開き、時系列を追い始めた。
サトウさんの冷静な視線
「乙区六番って、たしか借地権絡みだったはずですよ」サトウさんが背後から冷静に言った。すでに過去の謄本をPDF化して検索していたようだ。
「昭和六十二年に登録されて、その翌年に解除されてます。でも…これ、解除証書が見当たりませんね」
やれやれ、、、最近の若者は証拠を探すのが早すぎる。
備考欄に記された一行
「抹消済」とは、あくまで法的処理が終わっていることを意味するが、なぜか補正の履歴もなく、登記官の署名も曖昧だった。まるで、誰かがこっそり処理を進めたようだ。
そんな時代じゃないだろ、と思いつつも、昭和の空気が色濃く残る地方の法務局では、まだ“人情”が通用したのかもしれない。
だが、それが今になって悪意として現れている可能性がある。
見落とされた筆跡のゆがみ
サトウさんが画面を拡大して言った。「この“済”の字、通常の筆跡と違いますね。別人が書いてます」
その瞬間、ぼくはテレビで見た怪盗キッドのトリックを思い出した。偽装された書類と、すり替えられた証拠。まさかここにも“キッド”がいるのか。
ただし、こちらの怪盗はマントもハットも被らず、しれっと窓口の奥に座っていそうだった。
亡き父が遺したもの
依頼人の父は、家を担保に知人に金を貸していたという。その知人は数年後、失踪した。契約書の控えは残っていなかったが、備考欄に「乙区六番抹消済」と記された時期と重なる。
つまりその登記は、正式な手続きを経ずに“なかったこと”にされていたのではないか。
「これ、売買前にきっちり調べたほうがいいですね」ぼくは青年にそう告げた。
相続登記の裏に潜むもう一つの顔
相続登記がすべて完了しても、それが「真実」ではない場合がある。表向きは家族の温かな引き継ぎに見えて、裏には清算されていない借金や責任が眠っている。
それが登記簿の「備考欄」に一行で押し込められていたとしても、司法書士の目はごまかせない。
たぶん、たぶんだけど。
司法書士シンドウの泥臭い調査
翌日、ぼくは自転車で法務局に向かった。車を出すのも億劫だし、たまには運動しないと体がなまる。
窓口のベテラン職員に頭を下げて、抹消登記の申請履歴を調べてもらった。案の定、「特例処理」として内部処理された記録が残っていた。
処理者の名前を見て、思わず吹き出しそうになった。昔の草野球仲間、カトウだった。
法務局と喫茶店と旧友と
「あの時はさ、口約束だけで済んだ時代だったんだよ」カトウは喫茶店の角席でアイスコーヒーを飲みながら言った。
「けど今になって問題になるとはなあ。時代が変わったな」
「時代のせいにするなよ」と返したが、内心では少しだけ、同情していた。
やれやれ、、、誰が得するんだこれは
備考欄に残された一行は、誰かを守るためでもあり、誰かの首を絞めるためでもあった。その曖昧さが、今のこの仕事の難しさを物語っている。
やれやれ、、、結局また余計な仕事が増えただけだった。
でも、それがぼくの仕事だ。
鍵を握る元家主の手紙
青年が後日持ってきたのは、父親の残した手紙だった。「家は売ってもいい。ただし、過去の責任は整理してからにしてほしい」
それを読んだとき、すべてがつながった。父親も真相に気づいていたのだ。ただ、誰も傷つけたくなかった。
だからこそ、一行だけ「抹消済」と残した。それが彼なりの“警告”だったのだろう。
備考欄は誰のために存在するのか
登記簿は事実を記録する。でも、「備考欄」は、その裏にある心情や事情までも匂わせる。無機質な文書に潜む人間臭さ。
司法書士であるぼくが、その行間を読み取れなければ、誰が気づくというのだろう。
少なくとも、ぼくとサトウさんのコンビなら。
真相は一行の向こう側に
登記は無事に完了し、青年は家を売却することができた。だがその過程で浮かび上がった「たった一行」の存在は、最後までぼくらの頭から離れなかった。
それは、紙の上に残された小さな叫びのようにも思えた。
備考欄が語った真実。それを拾い上げるのも、司法書士の役目なのかもしれない。
故意か偶然か 書かれた文字の意味
カトウが残したあの“済”の文字は、故意だったのか、それともただの惰性だったのか。真相はもう闇の中だ。
でも、ぼくにとってはどうでもよかった。ただ、あの青年がきちんとした未来を歩ければ。
登記完了のスタンプを押した後、ぼくは深く息をついてつぶやいた。「……さて、次の“たった一行”はどこにあるんだろうな」