表題部に潜む顔

表題部に潜む顔

午前九時の訪問者

不釣り合いなスーツと重い封筒

その男は、月曜の朝、開業と同時に事務所へ入ってきた。高そうなスーツに見えたが、妙にサイズが合っておらず、肩が浮いていた。手にはずっしりとした封筒を持っており、机の上に「登記の相談です」と無言で置いた。

表情は固く、目は何かに怯えているようだった。だが、言葉遣いは丁寧で、こちらの質問にはきちんと答える。依頼内容は「空き家になった父の家の相続登記」。それ自体は珍しくない話だった。

しかし、サトウさんは封筒を開いた瞬間、眉をひそめた。「これ、筆跡が途中で変わってますね」と。彼女の指摘に、男は「父が病気で」と曖昧に笑った。

サトウさんの疑惑センサー

「あの人、たぶん本名じゃないです」——サトウさんは、男が帰った直後にそう言い放った。俺はと言えば、例によってコーヒーをこぼして書類を濡らした直後で、信用されていなかった。

「いや、でも免許証のコピーも戸籍も揃ってたよ?」と反論するも、彼女はタブレットを見せてきた。「今の住民票コード、五年前に別人が住んでた家と一致してます」そう言われても、ピンとはこない。

「サザエさんで言えば、あの人、波平のふりしたマスオさんです」それは…つまり他人、ってことだろうか。

登記簿の違和感

表題部の筆跡が語るもの

登記簿の表題部を見ると、確かに不自然な書き換えがあった。元の所有者は被相続人で間違いないが、備考欄に小さく追記されたメモの筆跡が、申請書に添付された遺産分割協議書と異なっていた。

「これ、同じ人間が書いたもんじゃないですよ」サトウさんは筆跡鑑定アプリを起動し、俺のスマホで照合を始めた。…便利な世の中になったもんだ。

一致率は五十パーセント未満。しかも協議書の押印が実印ではなく、銀行印。形式的にはアウトとは言いきれないが、なにかが変だ。

過去の所有者と現在の空白

さらに驚いたのは、固定資産税台帳と土地家屋調査士の報告書が食い違っていたことだ。三年前に火災があり、建物は半焼。そのまま取り壊された形跡があるのに、表題部は変更されていない。

「つまり、今の『家』は存在しないってことですか?」俺の問いに、サトウさんは小さく頷いた。「だから地番はあるけど、建物の現況は空白。そこが狙われた可能性が高いです」

いわば登記の幽霊屋敷。その表題部だけが、今もそこに「あるように見える」幻だとしたら——。

依頼人のもうひとつの顔

近隣住民の証言と噂

現地に足を運んでみると、空き地に錆びたフェンスと、看板だけが残っていた。「貸地」「要相談」と、雑に手書きされた文字。近所の主婦に聞いてみると、「あの人、また違う名前で来てたよ。前は鈴木だったかな」。

変装こそしていないが、別人になりすますその手口はまるで怪盗キッドだ。しかも狙うは「誰も見向きしない相続放棄済の土地」ばかり。目的は土地の名義を移し、不法転売することだろう。

「司法書士が最後の砦ですからね」とサトウさん。彼女はどこか楽しげだが、俺の胃はすでにキリキリしていた。

三年前の火災記録

市役所の資料室で火災記録を調べると、被災者の名前と依頼人の名字が異なっていた。さらに、その火災の際に近隣と土地境界で揉めた記録まで出てきた。揉めた相手の印鑑が、今の協議書に出てくる人物と一致する。

つまりこれは、相続登記に見せかけた「相続人なりすまし」だ。まるで『名探偵コナン』のような構図だが、ここは地方の司法書士事務所。俺はコナンじゃない。いや、せめて目暮警部くらいにはなれるか?

やれやれ、、、こうなると、ちょっとやるしかないよな。

私道に埋もれた真実

地積測量図に残されたしるし

地積測量図を確認すると、表題部の記載と現況がわずかにずれていた。特に「私道部分」の所有が曖昧で、今回の物件の敷地はわずかに食い込んでいるようだった。これは意図的なズレか、それとも偶然か。

その私道に接していた家が、以前失火元になった火災と同じ区画だと分かった時、すべての線が繋がった。登記簿の裏に潜んでいた「顔」は、火災を機に土地を失い、他人の名前を借りて還ってきた亡霊だったのだ。

俺の背中に嫌な汗が流れる。こいつはただの登記じゃない。亡霊と対話するような仕事だ。

亡き父と偽名の契約書

協議書の原本は、よく見ると偽造印章の跡があった。しかも依頼人が「父」と称した人物は、五年前に他界していたが、その死亡届が出されたのはつい半年前。実際には誰も彼を「父」として戸籍に迎えていなかった。

つまり依頼人の「表の顔」は、相続人を装った第三者。その裏の顔は、火災で家を失い、境界トラブルで追い出された男。動機は復讐か、それともただの金なのか。

どちらにせよ、この登記を進めれば俺も共犯になってしまう。

司法書士の逆転登記

やれやれ名義の裏にいたのは

俺は申請書の提出を止め、関係者に通知を送り、本人確認の再提出を求めた。その途端、依頼人は音信不通になり、住所にも誰もいなくなった。土地は今も「相続登記未了」のままだが、不正な名義移転は未遂に終わった。

警察には連絡し、調査中扱いとなった。登記簿には何も残らないが、裏にいた「顔」はもうこの町にはいない。…多分な。

「こういう時だけキマりますよね」サトウさんが冷たく笑った。やれやれ、、、。

塩対応のサトウさんの一手

サトウさんが最後に見せてきたのは、旧所有者の親族が書いた手紙だった。遺品整理の際に出てきたもので、本物の遺言書が見つかっていたのだ。そこにはこうあった——「私の家を欲しい人に譲ってほしい」。

つまり、この土地に執着していたのは他でもない、あの依頼人だったのだ。悲しみと執念の中で、彼は登記簿の中に自分の名前を刻もうとした。しかし、法は感情では動かない。

塩対応のサトウさんが、その感情にひと匙の理屈を差し込んだ。まるで、熱くなった鍋に冷水を注ぐように。

表題部が語らなかったこと

家族の嘘とほんとうの遺志

俺たちが見ているのは、登記簿の表面だけだ。そこには名前や地番が整然と並ぶが、その裏には人の歴史と想いが詰まっている。時に、それは幽霊のように立ち現れ、俺たち司法書士を試す。

家族が隠してきたもの、本当は伝えたかったこと。それらを掘り起こすのもまた、俺たちの仕事の一部なのかもしれない。まあ、報酬にはならないけどな。

それでも「誰も損をしない結末」にたどり着けたなら、それでいいのだ。

登記完了そして静寂

登記は結局、完了には至らなかった。だが、あの土地は今も空き地として静かに風を受けている。境界線の杭も打ち直され、やがて誰か新しい人が住み着くだろう。

俺は事務所に戻り、冷めたコーヒーをすすりながら、サトウさんに訊いた。「あの人、本当に悪いやつだったと思う?」彼女は言った。「悪いかどうかはともかく、正しくはなかったですね」。

俺は心の中で呟いた——やれやれ、、、今日もまた、誰にも知られない物語が、ひとつ終わった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓