登記は人を助ける仕事だと本気で思っている
司法書士になって十数年、ずっと思ってきたのは「登記って、人を助けられる仕事だ」ということです。不動産の名義変更や会社設立、相続登記など、どれもお客様にとっては人生の節目。私たちはその裏方として、見えない不安を整理し、将来への一歩を支える役割を担っています。時には感謝の言葉をいただき、胸が熱くなる瞬間もあります。それがあるから、続けてこられた気がします。
手続きひとつで誰かの未来が変わることもある
たとえば、ある相続の案件で、相談者のご兄妹が揉めていて、話すのも難しい状態でした。丁寧に間を取り持ち、書類を整え、無事に登記が完了した日、お客様が「先生がいなかったら兄弟関係が壊れてた」と泣いてお礼を言ってくれたんです。そのとき、自分の存在意義を感じました。法律的なサポートでも、人の人生に関われる。そう思えるからこそ、仕事に誇りは持っています。
その重さを受け止めてきた十数年
だけど、常に期待に応えるというのは想像以上に重いです。書類のミスひとつが信頼を失うことにつながりかねないし、プレッシャーはいつも背中にのしかかっている。私の肩こりは、ほとんどこの仕事のせいじゃないかと思うこともあります。自分の感情を置いてきぼりにして、人の人生の整頓に集中する――そんな日々が続いてきました。
ありがとうの裏にある見えない負担
「ありがとう」の言葉は確かに嬉しい。でも、その瞬間が終わったあと、ふと空虚さに襲われることがあります。感謝の言葉の重みと比例して、自分の中の孤独感も増すような。誰かの人生のサポートをしている自分が、どうして自分自身のことになるとこんなに無力なんだろう、と考えることがあるんです。
でもふと我に返ると虚しさがこみあげる
登記が終わり、静まり返った事務所で一人パソコンに向かっているとき。どこかで誰かを助けたはずなのに、自分の心はちっとも満たされていない。そんな瞬間がよくあります。誰かの役に立てる喜びと、自分の人生の空白とが交錯する日々。感情のやり場がなくて、ただため息だけが増えていくのです。
人を助けても自分は誰にも頼れない現実
「先生だからしっかりしてるはず」「プロだから大丈夫」――そんな風に見られているのは分かっています。でも、それが逆にしんどいんです。こちらが弱音を吐いた瞬間に、相手が不安になる。だから誰にも本音を言えなくなる。頼られる存在であることが、自分をますます孤独に追いやっていくこともあるのです。
友達にも言えず家族にも話せない
同年代の友人たちは家庭の話や子どもの話で盛り上がっていて、こちらは聞き役に徹するだけ。仕事の愚痴や疲れなんて言い出す空気でもないし、家族も「男なんだから頑張れ」くらいのテンション。結果として、誰にも自分のことを話さずに、ただ黙ってやり過ごす癖がついてしまいました。
ふとした瞬間に俺は何してるんだろと思う
深夜にコンビニで温かい缶コーヒーを買って、車の中で飲みながらぼーっとしていると、ふと「俺、何してるんだろう」と思うことがあります。誰かの役に立つために頑張ってるはずなのに、自分自身の人生がどんどん空っぽになっていくような感覚。それでも翌朝になれば、また登記の書類に向き合うしかないんです。
事務員との会話が唯一の救いのようで切ない
うちの事務所には事務員さんが一人います。お互い気を遣いながらも、なんとかうまくやっています。忙しい中でのちょっとした会話や笑いが、救いになることもあります。でも、そこに甘えてはいけないという気持ちも常にあって、線引きに苦しむこともあります。
他人との距離感と職場の静けさに疲れる
静かな職場で、キーボードの音だけが響いているとき、ふと寂しさを感じます。雑談もそこそこに、お互いの仕事に集中している時間が長いからこそ、逆に人との距離感が際立つ。ふとした沈黙が居心地悪く感じる日もあって、「今日はもう誰とも話したくない」と思うこともあります。
愚痴は言えども本音は出せない関係性
事務員さんにはちょっとした愚痴をこぼすこともあります。でも、踏み込んだ話になると急に口が重くなるんです。「あんまり言っても気を遣わせるだけかな」と思ってしまうし、結局は何も言わずに終わる。相手の優しさを無駄にしたくなくて、自分の感情はまた飲み込むことになるんです。
一緒にいても孤独は消えない
人がそばにいてくれることと、孤独を感じないことは別物だと知りました。仕事上のパートナーとして信頼していても、心の内側まで共有できるわけじゃない。ときどき、同じ空間にいても自分だけが別の場所にいるような感覚になります。これは自分の性格のせいかもしれないけど、避けられない現実でもあります。
元野球部の自分が今どこにも投げられない球を持っている
昔は野球に打ち込んでいました。仲間がいて、声を掛け合って、同じ目標に向かって走っていた。いまの仕事には、そういう「一体感」や「助け合い」はあまりありません。まるでキャッチャーのいないマウンドに立って、どこに投げたらいいかわからないボールを持っているような気分になることがあります。
汗をかいてた頃のほうが人との関係は楽だった
泥だらけになって走っていた高校時代の方が、今よりずっと人間関係はシンプルでした。言いたいことを言い合って、殴り合いになっても次の日にはまた練習。今の仕事ではそんなことは通用しないし、何より言葉のひとつが命取りになることもある。だからこそ、どんどん本音が言えなくなっていくんでしょうね。
それでも今日も登記に向き合う理由
弱音を吐きながらも、今日も書類に向かう自分がいます。どこかで「誰かのためになっている」と信じたいし、自分の仕事が社会の一部を支えているという実感も捨てきれません。完璧じゃなくても、不器用でも、自分なりに誰かを助けることができるなら、それが生きている意味なのかもしれないと、そんなふうに思っています。