登記簿に名前のない家
それはいつもの午後だった。事務所で相続放棄の申述書と格闘していたところに、見慣れぬ老地主が訪ねてきた。「おたく、変な家のことも調べるんだろう?」という、よくわからん前置きから始まり、どうやら登記の無い家の相談らしい。
話を聞くに、土地の所有は明確だが、その上にある家屋については登記簿に何の記録もない。けれど確かに家はそこにある。しかも最近、誰かが住み着いたような気配もあるという。
事務所の天井を見上げながら、「やれやれ、、、」とひとつため息をついた。
古びた家と古びた記憶
翌日、地主の案内でその家に足を運ぶ。くすんだ白壁に、軋む木の扉。昭和の終わりに時間が止まったような平屋だった。私の地元では珍しくもない風景だけれど、やけに空気が重く感じられる。
「なあんか、サザエさんに出てきそうな家ですね」とサトウさんがぽつり。いや、それにしては笑い声が聞こえない。時間が凍りついたままだ。
鍵が壊れていたため、地主の許可のもとで中に入った私たちは、さらに奇妙なものを見つけることになる。
壁に残された主張
家の中は片付いていた。家具はないが、埃があまり積もっていない。人の気配はある。窓際の床に、つい最近まで人が座っていたような跡があった。
そして、壁に文字があった。赤いスプレーで「ここは私の家」と乱暴に書かれていた。主張としては直球だが、書き方にはどこか悲壮感があった。
「不法占拠にしては、、、随分と切実ですね」とサトウさんが静かに言った。
登記情報の空白
事務所に戻って調べたが、建物登記簿には何の記録もない。固定資産課税台帳にも空欄。だが、昭和52年の航空写真にはその家が映っていた。
「なぜ記録が抜けたんでしょう?」とサトウさんが不思議そうに首をかしげる。私はぼんやりと「サザエさんの家も、たぶん登記されてないかもな」と呟いた。
冗談のつもりだったが、サトウさんは完全スルー。冷たい、、、いや、仕事モードのようだ。
封印された過去の所有者
古い固定資産評価台帳を掘り返すと、一度だけ「カナモリヨシエ」という女性の名前が出てきた。40年以上前に課税された記録だった。だが、その後、どの資料にも彼女の名は登場しない。
「失踪した可能性もありますね」とサトウさん。調査の結果、彼女は一度離婚訴訟を起こしており、その中でこの家の所有権を主張していたことが分かった。
しかし元夫が登記しないまま亡くなり、財産分与も曖昧なまま、すべてが流れていったようだ。
誰にも知られず住み続けた女
さらに近隣の証言で、数年前まで高齢の女性が一人でその家に住んでいたことが判明した。電気も水道も未契約。生活の痕跡は最小限。
「あの人、時々フードをかぶって夕方に出てくるんです。ルパン三世みたいにスッとね」近所の八百屋が妙に印象的な表現をした。
私の頭の中で、銭形警部が「待て〜い!」と叫んでいたが、それはあくまで妄想である。
終の住処と呼ぶには切なすぎる
結局、その女性――カナモリヨシエさんは一か月前、自宅でひっそり亡くなっていた。死因は老衰。だが、身元を確認できる者は誰もいなかった。
「この家、結局誰のものでもなかったんですね」と私が言うと、サトウさんは「だから誰にも奪われず、ずっと守られてきたのかもしれません」と返した。
私の胸に、ちくりと痛みが走った。
登記と存在のはざまで
カナモリさんの遺品の中に、小さなメモがあった。「ここが私の家です。誰にも渡さない」と震える字で書かれていた。
その紙を見た瞬間、私はこの家に登記がなかった理由がわかった気がした。制度から漏れ落ちたのではない。彼女自身が選んだ、静かな孤独だったのかもしれない。
「やれやれ、、、この世には法律では割り切れないものが多すぎる」と私は天井を見上げた。
司法書士の締めくくり
地主と相談し、建物滅失登記を行うことにした。誰にも迷惑はかけない。ただ、存在だけが静かに消えていく。
サトウさんは相変わらず事務的に処理を進めていたが、ふと帰り際に一言呟いた。「シンドウさん、今日の案件はちょっとだけ、胸にきました」
私は答えなかった。ただ、扉を静かに閉め、あの家に一礼して、風の中に立ち尽くした。