朝一番の来訪者
午前九時、いつものように事務所のドアが重たげに開いた。寒さの残る春の空気が吹き込む中、地元では名の知れた不動産業者、沼田が現れた。いつも威勢のいい男が、今日はどこか落ち着かない様子だった。
「ちょっと登記のことで相談がある」とだけ言い残し、彼は応接ソファに腰を下ろした。視線は落ち着きなく動き、スーツの袖口をやたらと引っぱっていた。
その後ろでサトウさんがチラリとこちらを見て、無言でコーヒーを置いた。たったそれだけの動作なのに、彼女の「また厄介なのが来たな」という声が聞こえた気がした。
普段と違うサトウさんの表情
いつも塩対応のサトウさんが、その日はほんの一瞬だけ眉をひそめた。何かを感じたのだろう、沼田の様子に違和感を覚えたのかもしれない。彼女は沼田が持参した資料にすぐさま目を通し、小さく息を漏らした。
「これ、登記の対象が違ってますよ。去年の建物じゃなくて、三年前に解体されたはずの旧家屋になってます」
「え? そ、そうか……俺、間違えたかもな」と沼田はごまかすように笑ったが、その笑いには覇気がなかった。何かを隠しているのは明らかだった。
古びた登記簿と一枚のメモ
棚の奥から引っ張り出した旧家屋の登記簿を確認すると、そこには確かに過去の名義が記録されていた。だが、誰かの走り書きのようなメモが一枚、間に挟まっていた。
「俺が死んだら、この家はユリにやってくれ」──その走り書きには名前も日付もなかった。ただし、“ユリ”という人物が誰なのか、まるで見当がつかない。
「これは……有効な遺言じゃないですね」とサトウさんが淡々と言う。だけど、何かひっかかる。まるで、このメモがすべての鍵のような気がしてならなかった。
依頼人の奇妙な沈黙
「この書き込みに心当たりは?」と尋ねると、沼田は視線を逸らした。そしてしばらく沈黙の後、「いや、知らん。そんなもん初めて見た」と言った。
口調は固かったが、その沈黙が語るもののほうが多かった。むしろ「知らない」と言うその言葉が、このメモの真実を逆説的に証明しているようだった。
嘘をついている者は、往々にして喋りすぎるものだ。沼田は黙りすぎていた。
名義変更のはずが登記を拒む理由
「名義変更したい」と言っていたはずの沼田が、突如としてその手続きをやめたいと言い出した。理由を問うと、「なんか、めんどくさくなってきた」と投げやりな言い訳。
そんなもんで引き下がると思っているのか。私も伊達にうっかりばかりしてきたわけじゃない。うっかりに紛れて鋭く切り込むのが、司法書士流の推理術なのだ。
「この“ユリ”さんって、もしかして……」と口にしたとたん、沼田がピクリと肩を揺らした。その一瞬がすべてだった。
調査開始と旧友からの手紙
後日、役場の調査と、地元で新聞記者をしている旧友・高坂の協力で、ユリという人物が判明した。彼女はかつて沼田の父親が面倒を見ていた女性だった。
戸籍には載らない関係だったが、町の噂では“内縁の娘”とも言われていたという。そして、問題の家はその父親が亡くなる直前まで住んでいた建物だった。
「やれやれ、、、また人の心が登記簿より複雑な事件だ」と私はつぶやいた。ルパン三世の銭形警部ばりに、空を見上げるしかない瞬間だった。
かすれた筆跡が示すもの
メモの筆跡を、かつての手紙と照合した高坂が言った。「これ、お父さんの字だな。本人が残した言葉だよ」
やっぱりそうだったのか。だがそれでも、遺言としては成立しない。それが司法の冷たさであり、制度の限界だ。
「ただのひと言」──それが、法的には何の効力もない。だが、人の心を動かすには十分すぎるほど重い言葉だった。
隠された遺言書の存在
サトウさんが再度、古い家屋の謄本を調べ直していると、小さな封筒が壁の裏側に隠されていたという情報が入った。それは解体業者が見つけ、捨てずに保管していたものだった。
中には、法的に有効な自筆証書遺言が入っていた。そこには、「すべての財産をユリに譲る」と記され、署名・日付も明記されていた。
メモではなかった。ひと言以上の“言葉”が、きちんと残されていたのだ。
遺言ではなく“ひと言”だった
それでも、私にはあの走り書きのメモが忘れられなかった。あれは、沼田の父が何よりも先に伝えたかった“気持ち”だったのだろう。
制度としての遺言は補助に過ぎない。本当に人を動かすのは、たったひと言の重みだと痛感した。
そう、登記よりも、大事なひと言がある。
結末と後味
最終的にユリさんは正当な手続きを経て家を相続した。沼田は静かに事務所を後にしたが、その背中はどこか軽くなっていたようにも見えた。
「まぁ、登記も大事だけどな」とつぶやいた私に、サトウさんが無言で書類を差し出す。「仕事、まだありますよ」
やれやれ、、、結局、最後に動くのは私か。まったく、司法書士ってのは、名探偵と同じくらい報われない職業かもしれないな。