依頼人は元カノだった日

依頼人は元カノだった日

依頼人は元カノだった日

朝の事務所に届いた封筒

その朝は、梅雨の名残がじっとりと空気に残っていて、机に触れるだけで湿気が手にまとわりついた。サトウさんが無言で俺の机に一通の茶封筒を置いた。表書きに見覚えのある名前があった瞬間、コーヒーが喉で止まった。

「あー……これは……」俺は喉元まで出かかった言葉を押し戻す。サトウさんがちらりと俺の顔を見て、すぐに無表情に戻った。やれやれ、、、朝から厄介な空気だ。

差出人の名前に見覚えがあった

「岸本真理恵」その名前を目にしたのは、もう十年以上前の話だ。大学時代、野球部の打ち上げで知り合い、短い間だけ付き合っていた元カノだった。別れたあとも、どこかで偶然会うこともなく、ただの過去になっていた。

なのに、いまさら司法書士の俺に封筒を送ってくるとは。いや、これは仕事だ。個人的感情を挟んでいる余裕なんて、この事務所にはない。そう言い聞かせて中身を確認した。

サトウさんの無言と横目

「知り合いですか」と、サトウさんが言った。聞いてくるとは珍しい。俺が何も言わないと、ますます疑わしい目を向けてくる。

「いや、まぁ……ちょっとな」そう答えると、「そうですか」とそっけなく返された。こういうとき、サザエさんのカツオばりに誤魔化す術でもあればいいんだが。

不動産登記と遺言書の矛盾

依頼内容は、亡くなった父親の遺言に基づく相続登記だった。ところが添付された資料を見て、眉をひそめた。遺言書に記された不動産の地番と、登記簿謄本に記されたものとが微妙にズレている。

故意か、単なる勘違いか。登記実務上では珍しい話ではないが、妙に引っかかる。

昔の記憶が邪魔をする

ファイルを閉じて、椅子にもたれた。真理恵の顔が、昔のままの笑顔で脳裏をよぎる。「あの頃は楽しかったね」なんて言葉が、もしこれから交わされるのなら、俺は耐えられる自信がなかった。

けれど、過去を仕事に持ち込んではいけない。それが司法書士という仕事の流儀だ。たとえ、依頼人がかつて心を通わせた人でも。

現場に残された謎の契約書

翌日、不動産の現地確認のために出向くと、古びた家の居間に見慣れぬ封筒が置かれていた。中には、父親と名乗る人物の署名が入ったもう一通の契約書があった。

それには違う受取人の名前があった。「岸本良太」真理恵の弟だという。おかしい。遺言には彼の名前はなかったはずだ。

元カノが語る現在の真実

「実は……父は二通、遺言を用意していたの。けれど、後の一通を破棄したのが、あの人なのよ」そう語る真理恵の目は真っ直ぐだった。破棄されたのは、弟を相続人に指定したもので、正式なものは彼女宛だった。

「でも、それを信じてくれない親戚がいて……証明したいの。ちゃんと、法的に」

隠された筆跡ともう一人の男

提出された契約書の筆跡に、違和感があった。表向きは父親の署名だが、日付の数字だけ、筆圧が違う。精査の結果、真理恵の叔父が筆跡を偽装していた可能性が浮かび上がった。

そこまでして財産を弟に残したい理由は一つ。金だった。借金を抱えた叔父は、遺産を弟に渡し、そこから自分の債務を消そうとしていたのだ。

サトウさんの冷静な指摘

「あの数字、変ですよね。これ、三じゃなくて五の筆跡です」サトウさんは淡々と指摘した。その言葉で、真偽の判断が決まった。

調査報告書を添えて、正式に登記申請を行った。依頼は完了した。あとは、裁判所が判断するだろう。

やれやれ、、、また面倒な話だ

事務所に戻ると、俺はコーヒーを淹れ直して椅子に座った。やれやれ、、、結局、過去の話を今に持ち込んでしまったじゃないか。

サトウさんが、「あの人、ちょっとだけ笑ってましたよ」とぽつりと呟いた。俺は何も答えなかった。たぶん、俺も少しだけ笑っていたのだろう。

真相は父親の遺志にあった

公正証書で残された第二の遺言こそが、本物と認定された。偽装された私文書は無効とされ、真理恵が正式な相続人として認められた。

その瞬間、彼女は静かに深く頭を下げた。それ以上、言葉はなかった。

元カノの涙とシンドウの独り言

「あのとき、ちゃんと別れてよかったと思う」それが彼女の最後の言葉だった。涙は一滴もこぼれていなかったが、背中が少しだけ震えていた。

俺は小さく、「ああ」とだけ返した。過去は過去。登記簿には、未来だけが記される。

登記簿が語る最後の証言

不動産の名義は、正式に岸本真理恵名義となった。登記官から確認の連絡が来たとき、俺は机の下でこっそりガッツポーズをした。

手続きが終われば、それでいい。俺の仕事は、いつもそこまでだ。

サトウさんの一言で静かに終わる

「結局、シンドウさんって巻き込まれ体質なんですよ」そう言って、サトウさんは自分の仕事に戻っていった。

なんだかんだ言いながら、今日も無事に一件落着。疲れるけど、嫌いじゃない。この仕事。

静かになった夕方の事務所

ブラインドの隙間から、沈みかけた夕日が差し込んできた。今日もまた、俺は一日を登記と記憶に刻んだ。

コーヒーは冷めていたが、なぜか妙にうまかった。

過去は過去登記は現在

封筒をしまい、俺は机を軽く叩いた。人生には訂正も取り消しもできないことがある。けれど、登記ならできる。

……たぶん、だから俺は、司法書士をやってるんだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓