司法書士の静かな夜は静かではなかった
その日の夕暮れは、やけに蒸し暑かった。役所帰りの書類を抱えて、俺はようやく事務所の椅子に腰を下ろした。パソコンの前に置かれた麦茶がぬるくなっていて、なぜか自分の人生そのものを表しているようで少し切なくなった。
「今日こそは早く帰ろう」そんなささやかな希望を胸に、メールチェックをしていると、電話が鳴った。表示された番号を見て、ため息をつく。法務局からだった。
閉庁間際の一本の電話
「あの、閉鎖登記簿の件でご相談が……」と、電話の主は遠慮がちに切り出した。相手は不動産業者らしく、古い物件の登記情報に何かおかしな点があるという。閉鎖された登記簿の一部が、現在の物件と食い違っているというのだ。
「閉鎖登記簿ってのは、いわば時代の化石だよ」と、ぶつぶつ言いながら、俺は手元の予定を睨んだ。これは嫌な予感しかしない。
不動産にまつわる奇妙な記録
件の物件は、町外れの小さな家だった。最近になって取り壊されることになったが、取り壊し前に現地で謄本と照合したところ、地番が一致しない箇所があるという。俺はしぶしぶ登記簿を確認するため法務局に戻ることになった。
「やれやれ、、、夜に役所に逆戻りとはサザエさんのエンディング直後に再放送が始まるようなもんだ」そうつぶやきながら、俺は車を走らせた。
閉鎖登記簿の奥にあるもの
法務局の登記官は、眠そうな目で分厚い冊子を差し出した。「この地番、旧町名が絡んでますね」そう言われてページをめくると、そこには現在と異なる名義人の名前が記されていた。しかも、その名義人は三年前に死亡している。
だが奇妙なのは、その直後に別の人間に名義が移っている点だった。相続登記かと思いきや、申請書の記録がどこにもない。名義変更の裏に、何かがあると俺の第六感がささやいた。
依頼人は語らず
不動産業者に連絡を取って事情を聞こうとするが、どうにも要領を得ない。「あの物件は、ただの空き家で……」と歯切れの悪い返事が続く。俺の中で、サスペンスの香りが強くなる。
そこで俺は、閉鎖簿に記された最後の名義人——三年前に亡くなった男の足取りを辿ることにした。市役所で戸籍を確認し、住所の変遷を追うと、彼は最後にあの空き家に住んでいたことがわかった。
謎の相続人の正体
さらに調べを進めると、彼には遠縁の相続人がいた。しかし、その相続人からの登記申請の形跡は見つからない。まるで誰かが「第三者」として勝手に名義を移したような痕跡があった。
「これ、名義人が生きてるうちに贈与でもしたんですかね?」とつぶやく俺に、サトウさんは冷たく返す。「そのわりに、贈与契約書がどこにも見当たらないですよ」
サトウさんの冷静な指摘
さすがはサトウさん、俺のボンクラな脳みそより早く、事実を繋ぎ始めていた。彼女が注目したのは、閉鎖簿に記された住所表記だった。わずかに一文字だけ、現在の登記と異なっていたのだ。
「これ、地番がずれてるように見えて、実は意図的に似た番地に改ざんされてるんじゃないですか?」——その言葉が俺の中の野球部魂を呼び覚ます。
地番のズレに気づいた瞬間
改ざんされていたとすれば、それは明確な意思を持った何者かの仕業だ。俺は法務局の過去の受付記録を洗い、数年前にこの住所で登記申請をした人物を突き止めた。その人物の名は、地元の行政書士だった。
登記簿に記録されていない「闇申請」……それは決してあってはならないはずだ。
再調査と野球部の勘
俺は再び現地に赴き、古い地図と現在の公図を照らし合わせた。そこで気づいたのは、ある番地が不自然に飛ばされている点だった。まるでその土地が「なかったこと」にされているような配置になっていたのだ。
「これは野球で言えば四番打者がいない打順だ。絶対におかしい」そんな例えを口にしてしまうあたり、自分でも情けない。
資料室に眠る一枚の地図
法務局の資料室で見つけたのは、手書きの公図。そこには今では存在しないはずの地番が、しっかりと記載されていた。誰かがそれを封印しようとしていた。
そこに登記が残っていれば、あるはずのない名義人の痕跡もまた浮かび上がる。俺の手は震え始めた。
登記官の曖昧な記憶
事情を聞くと、年配の登記官はこう言った。「ああ、その件、確か一度却下されたはずですよ」だが却下記録も見つからず、申請番号も記録にない。
そのとき、俺は気づいた。登記簿が閉じた瞬間こそが、すべての始まりだったのだと。
変更申請を巡るもうひとつの真実
行政書士が提出した書類に、同じ筆跡で書き直された箇所があった。申請者名が書き換えられていたのだ。つまり、誰かが他人の名義を使って、別人に土地を譲渡した形を偽装していた。
これこそ、閉鎖簿の中で闇に葬られた不正だった。
夜の役所で起きたこと
すべての書類を揃え、夜の役所に忍び込む……というのは嘘だが、再度法務局を訪れた俺は、担当官に報告書を提出した。証拠も、筆跡鑑定の結果もある。
登記は取り消され、真の相続人が名義回復を行うこととなった。静かな帳簿の中に、確かに一つの事件が存在していたのだ。
閉鎖簿の記録が消された理由
後日、関係者から聞いた話によれば、不動産業者は知らずに買い取っていたらしい。騙したのは行政書士ではなく、さらにその依頼人だった。
誰かが、誰かの土地を「忘れさせよう」とした。それは一枚の登記簿を閉じることで、なかったことにされる小さな犯罪だった。
決め手は一通の書類
事件の決定打となったのは、一通の委任状だった。そこには不自然な日付、そして本来の筆跡と異なる署名があった。
あとは俺がそれを持って警察に届けるだけだった。まあ、どうせ表に出るのは警察と相続人で、司法書士の俺の名前など記録に残ることはないのだが。
委任状に記された小さな誤字
委任状にあった「相続登記」の文字は、「相属登記」となっていた。おそらくは急いで書かれたものなのだろう。それが今回の事件を暴く小さな綻びとなった。
サトウさんはそれを見つけた瞬間、何も言わずに俺にファイルを差し出した。まったく、彼女がいなければ俺は一生気づかなかったに違いない。
シンドウの推理と告発
結局、警察も動き、関係者数名が事情聴取を受けることになった。行政書士は関与を否定したが、提出された書類の筆跡が一致していた。
俺は証拠資料をまとめ、提出書類のコピーと共に事務所に戻った。事件は解決に向かっている。それだけで、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
不自然な名義変更の罠
あの空き家は、やがて取り壊される。そして誰も知らないまま、名義は本来の持ち主に戻る。表向きには何もなかったことになり、新聞沙汰になることもない。
それでも、登記簿には確かに一瞬、不正が記されたのだ。その痕跡を暴いたことだけが、俺のささやかな誇りだった。
事件の結末と再びの平穏
「もう今日は何も起きないよな」そうつぶやいて、俺は椅子に深く沈んだ。サトウさんは何も言わず、黙々と報告書をPDF化している。
「シンドウさん、あの資料の原本、提出し忘れてませんか?」
サトウさんの微笑みと塩対応
俺はデスクを見渡し、青ざめた。「うわ、またか……」とつぶやく俺を見て、サトウさんが鼻で笑った。「やれやれ、、、結局最後は私が回収ですか」
その日も結局、帰宅は遅くなった。閉じられた登記簿の中には、まだ語られていない真実があるのかもしれない。