依頼人の不在が告げた異変
朝の事務所には、珈琲の香りとともに静寂が流れていた。午前九時ちょうどに訪れるはずの依頼人、故・田嶋康一の長男が姿を見せなかった。それだけなら珍しい話ではない。だが、その男はこれまで分単位で時間に正確だったのだ。
「何かあったかもしれません」とサトウさんが淡々と言った。僕はうなずきながら、未完の登記資料が広がる机に目を落とした。
ふと、机の端に置かれた分厚い封筒が目に入った。それがこの事件の発端だった。
机の上の未記載の遺言書
封筒の中身は、遺言書の下書きだった。相続財産の詳細、特定遺贈の箇条書き、そして最後の署名欄にだけ何も書かれていない。日付もなければ、押印もない。文面には「娘・涼子に全財産を相続させる」とあるが、息子の名前はどこにもなかった。
「娘?」僕は思わず声を出した。「この人、未婚じゃなかったか?」
サトウさんはパソコンのキーを静かに叩き始めた。「戸籍、洗いますね」とだけ呟いた。
被相続人Xという謎の人物
田嶋康一、享年七十六。登記簿にも役所の資料にも、彼が結婚していた記録はない。住民票を遡っても、同居人の痕跡すらなかった。だが、遺言書には確かに“娘・涼子”とある。
「サザエさんで言えば、いきなりタラちゃんの双子の姉が出てきたみたいなもんですね」と呟くと、サトウさんは鼻で笑った。「タラちゃんには妹がいましたよ。イクラちゃんと同い年でしたけど」
やれやれ、、、冗談のつもりだったのに、知識で返されると傷口が広がる。
戸籍に浮かぶ空白の関係
過去の除籍簿を取り寄せると、数十年前に「非嫡出子」として一人の名前が記されていた。名字は違ったが、名は「涼子」。出生届が出された後、籍が抜かれていた。養育環境は不明。さらに調べると、母親の氏名は「大垣涼」とあった。
「大垣涼、、、」僕はつぶやいた。どこかで聞いたことがある名前だった。
サトウさんが目を細めて言った。「この方、二十年前に成年後見の申立がされてます。その時、後見人に選ばれたのが……田嶋康一です」
サトウさんの冷静な着眼点
事務所の机に広げた資料の中に、固定資産税の通知書があった。その宛名は「田嶋康一」ではなく、「大垣涼子」。差出人の名前と違う宛名が、違和感となって胸に引っかかった。
「この家、名義変わってますね。贈与ではなく、持分移転で。しかも、成年後見人時代に」
つまり田嶋は、自分の財産を実の娘にこっそり渡していた可能性がある。だが、そのことを正式な遺言書には残していなかった。
登記記録に残る違和感
過去の登記簿を見ると、一度だけ所有権が「大垣涼子」に移され、その一年後にまた「田嶋康一」に戻っていた。仮登記だったのだろうか?いや、そうではない。移転登記後、何らかの取り消しが行われていた。
「これは、、、贈与を巡って何かあったな」僕はため息をついた。
何となく、ルパン三世のような怪しい影が背後にちらついて見える気がした。
やれやれ口を開かない依頼人
ようやく事務所に姿を現した息子・田嶋誠一は、ぶっきらぼうに椅子に座った。遺言書の件を伝えると、彼は一瞬だけ眉を動かした。
「涼子って、あいつか。昔、うちに来てた女の子だ。母親違いの、、、いや、母親が誰かも知らん」
サトウさんは表情を変えずにメモを取り続けていた。「遺留分、請求されますよ」
証言から浮かび上がる遺族の確執
その後、何人かの関係者から事情を聞いた。田嶋康一は数十年前、当時の恋人との間に子を成したが、相手は家庭の事情で入籍できなかったらしい。娘は養護施設で育ち、青年期に入り康一と接触を持つようになった。
だが息子の誠一は、その事実を快く思っていなかった。彼の態度が涼子の疎遠に拍車をかけ、結果、親子関係は長く冷却されたままだった。
遺言書には、ようやく赦しと悔いの想いがにじんでいたのかもしれない。
遺言執行の裏で進む偽装
さらに驚いたのは、日付の記された別紙の遺言書が後日届いたことだった。それは誠一が持ち込んだもので、そこには「全財産を誠一に相続させる」とだけ書かれていた。
しかし筆跡鑑定を依頼すると、決定的な結果が出た。
「この筆跡、田嶋康一のものではありません」と鑑定人は断言した。
押印された日付の矛盾
押印された印影は確かに本人の実印だったが、押印日は彼が入院していた期間と一致していた。しかも、印鑑登録証明書の日付とずれている。誰かが過去の印影を転用した可能性が高い。
「偽造ですね。やれやれ、、、こんなベタな手口、今時使う人がいるとは」
ふと、どこかの少年探偵団の顔が浮かんだ。「真実はいつもひとつ」ってな。
真実の相続人は誰か
すべての証拠が揃った。涼子こそが、田嶋康一の意志で選ばれた相続人だった。登記上も、相続手続き上も問題はなかった。ただ、彼女が望んでいたのは財産ではなかった。
「父の想いが、証明されただけで十分です」と涼子は言った。
その一言に、僕は胸を打たれた。何よりも重い遺産が、確かにそこにあった。
最後に現れた無戸籍の娘
涼子の戸籍は、成人するまでなかった。母親が正式な出生届を出しておらず、彼女は戸籍のないまま育った。田嶋康一が後見人となって初めて、戸籍が作成されたという。
「法というのは、時として人を置き去りにする」と僕は独りごちた。
だがその空白を埋めるのもまた、僕たち司法書士の仕事なのだと感じた。
決着と再出発
最終的に、遺言書の検認手続きは涼子の提出したものが採用され、登記も完了した。誠一は遺留分を放棄し、二度と連絡を寄越すことはなかった。
登記が完了した通知書を涼子に渡すと、彼女は小さく頭を下げた。「ありがとうございました。父が生きていた証を、残せてよかったです」
僕は少しだけ笑った。「遺言書に書かれなかった名前が、本当の相続人だった。そんな話、誰も信じないだろうけどね」
司法書士が記した新たな登記
新しい登記事項証明書には、「大垣涼子」の名がしっかりと刻まれていた。彼女の名は、これから彼女の人生のスタート地点になるのだろう。
サトウさんが片付けをしながら言った。「あの人、泣きそうでしたね」
「そりゃそうだよ。名前がなかった人生から、ようやく抜け出せたんだから」僕はそう言って、ほっと一息ついた。