開かずの家と古びた登記簿
その家は、駅からほど近い場所にぽつんと存在していた。草むらに埋もれ、郵便受けには広告が溜まっている。持ち主は誰なのか、近所の誰に聞いても口を濁した。
そんなある日、事務所にやってきた依頼人が取り出したのは、昭和の香りが漂う登記事項証明書だった。表紙には、問題の家の所在地がはっきりと記されている。
依頼人の登場と語られぬ過去
「父の相続登記をお願いしたいんです」と依頼人は言った。落ち着いた口調だったが、指先が微かに震えていた。彼の目は、その家の影に怯えるように見えた。
提出された資料を眺めていたサトウさんの眉が、わずかに動いたのを見逃さなかった。「登記名義人が……これ、別の名前ですよ」
相続登記の依頼が語る違和感
確かに、相続対象となるはずの父親とは異なる名前が登記簿には記されていた。名義人は見知らぬ女性。しかも、住所欄には二重線が引かれ訂正されている。
「登記の訂正ミスですかね?」と僕が尋ねると、サトウさんは無言で首を横に振った。その顔は、すでに解答を探し始めている探偵そのものだった。
亡き父の土地に記された別の名義
「名義変更がされていないのではなく、最初からこの女性が所有者として登記されていた形跡があります」とサトウさん。言葉の鋭さは、まるで怪盗キッドの予告状。
しかし依頼人は、父が生前「この土地は俺のものだ」と語っていたと主張する。真実は、どこにあるのか。
サトウさんの冷静な一言
書類をスキャンしながら、サトウさんがぼそりとつぶやく。「この筆界、ズレてますね。数十センチ、隣に食い込んでる」
「つまり……土地の一部が隣の土地と重なっているってこと?」と尋ねると、「ええ、でもそれだけじゃありません」と続けた。
「この筆界、ズレてますね」
登記簿上の地積と、実測図の面積が明らかに合っていない。しかも、そのズレはちょうど名義人が変わった時期と一致していた。偶然にしては、出来すぎている。
こうした違和感が、事件の始まりを告げていた。司法書士の世界では、ズレが真実を炙り出す火種になる。
古い登記事項証明書が語るもの
法務局に出向いて閲覧した過去の閉鎖登記簿には、昭和53年に所有者が変わっていた記録があった。その名義人こそ、あの女性だった。
だが彼女の名前は、その後どの登記簿にも出てこない。戸籍の附票を辿っても、数年後に突然「行方不明」と記されていた。
昭和の売買と謎の失踪人
「売買」登記の理由には、「代金受領済」と手書きの備考が残っていた。売主とされる人物も、被相続人の父ではなかった。
奇妙なのは、売主と買主の住所が同一で、しかもその当時からその家は空き家だったという点だった。
近隣住民の証言と空白の十年
近隣に住む高齢者の証言では、40年前に若い女性が一度だけ引っ越してきたが、数ヶ月後に姿を見なくなったという。「あの家は、その後ずっと空き家だったよ」
それなのに名義は変わっておらず、税金もきちんと納められていた。誰かが裏で管理していたのだ。
「あの家は誰も住んでなかった」
何も語らぬ家。そこには、昭和のある夜に封じ込められた“何か”があった。登記簿は語らない。しかし、それは確かに“記録されて”いた。
「やれやれ、、、この家、サザエさんの家みたいにドアを開けたら毎週笑える話があるわけじゃないね」と、思わずぼやいてしまった。
登記簿に残されたもう一つの住所
女性名義人の記録には、かつて勤めていた会社の住所が記されていた。都内の小さな印刷会社。そこを訪ねると、元社員が一人、資料室で働いていた。
「彼女?ああ……覚えてる。確かにいたけど、ある日急に辞めてね。何も言わずに。ちょっと、怖かったよ」
そこにいたはずの人物の痕跡
勤怠記録もロッカーの中も、すべて処分されていた。彼女の存在は、会社の中からも消されていた。
登記簿に残った住所と名前だけが、彼女がこの世界に存在していた最後の痕跡だった。
法務局職員の記憶の中の違和感
「あの登記、ちょっと変でしたよ」と、古参の法務局職員は言った。「あの頃、紙の登記簿でね……消しゴム跡みたいなものがあったんです」
訂正記録も残っていない。消された理由が分からない。だがその職員は、「誰かが何かを隠したがっていた」と語った。
改ざんではないが整合性が取れない記録
登記簿は公的な記録であり、意図的な改ざんはまずあり得ない。だが、記載されない“空白”こそが、最大の手がかりになる。
僕はようやく気づいた。ここに“書かれていない何か”が、この事件の鍵を握っている。
サザエさん方式では解決しない現実
日曜の夜、現実は笑って終わらない。まして登記簿の不一致など、波平の「バッカモーン!」で済まされる話ではない。
「やれやれ、、、俺たちに必要なのは、カツオの機転じゃなくて、イクラちゃんの“ハーイ”の一言かもな」
司法書士が調べ上げた真実
土地の一部が父親名義、もう一部が女性名義として登記されていた理由。それは、父が不倫相手に土地を与えた後、別れを機にこっそり取り戻したことだった。
だが登記だけはそのままにしていた。相続でその事実が明るみに出ることを恐れたまま、父は亡くなったのだ。
二重登記の裏に潜んでいた家庭の崩壊
女性は父の裏切りに絶望し、家を出て消息を絶った。登記簿に残された名義だけが、彼女の存在の証だった。
依頼人は、戸惑いながらも「これは……父の過去と向き合うしかないですね」とつぶやいた。
過去と向き合う依頼人の涙
遺産とは、金や土地だけではない。知らなかった家族の真実が遺された時、人はそれとどう向き合うかを問われる。
依頼人の目には、静かな涙が浮かんでいた。それは怒りでも悲しみでもない、赦しの色を帯びた水滴だった。
登記簿が暴いた父の罪と子の贖い
依頼人は、名義の整理と共に土地の一部を福祉施設に寄付することを決めた。父ができなかった贖いを、息子が果たす。
「登記簿に書かれたことも、書かれなかったことも、今ようやく意味がわかりました」と、依頼人は深く頭を下げた。
静かに終わる事務所の一日
夕暮れが差し込む事務所で、僕は冷めたコーヒーを見つめていた。なんともやりきれない一件だった。
「ま、よくある話ですよ」と、背後からサトウさんの声が聞こえる。その声は、少しだけ優しさを帯びていた。
「コーヒー、冷めてますけど」
「ああ……ありがとう」と言いながら、僕は立ち上がった。書類はすべて片付けられ、依頼人の帰り道に灯がともる。
この静けさが、少しだけ僕の背中を押してくれた。
サトウさんの塩対応と夕焼け
窓の外、オレンジ色の空に街灯が灯り始めていた。事務所の静寂が、一日の終わりを告げている。
「ちゃんと冷めた理由、ありますよ。話が長いからです」そう言ってサトウさんは帰り支度を始めた。
「ちゃんと冷めた理由、ありますよ」
「やれやれ、、、冷めてたのはコーヒーだけじゃないかもな」と、僕は誰にも聞こえないようにつぶやいた。
背中で笑ったようなサトウさんの気配を感じながら、僕も一歩、前に進んだ。
うっかりが繋いだ証拠の糸
今回もまた、僕の“うっかり”がサトウさんの推理のきっかけになっていた。古い登記簿のミスコピー。それが真相に近づく鍵だった。
「元野球部の直感も、たまには役に立ちますね」そう言ってサトウさんは一瞥をくれた。
シンドウの意地と野球部魂
9回裏ツーアウトからでも、逆転できる。それが僕の野球魂だ。ミスから始まるヒントもある。
司法書士だって、最後にはホームランを打ちたい時があるのだ。
事件の結末と新たな依頼の気配
日が沈みきる頃、電話のベルが鳴った。新たな依頼。誰かの秘密。きっとまた、登記簿が真実を語り始める。
「はい、司法書士のシンドウです」そう名乗る声に、少しだけ力が入っていた。